可能性はあるのか。

 春の異動で医事係を去るMさんの送別会にて。
 市内のレストランにボス以下全員が集まった。
 その店はノンアルコールまでドリンクの種類が豊富だから、スタッフの半分が女性であるこの医事係には最適の場所だった。
 Mさんの異動先は院内なので、送別とは言ってもあまり大げさなものではない。もちろん、誰もが認める医事係のムードメーカーだったし、今後の活躍を誰もが期待していたからボスを始めとして寂しさを隠すものはいなかった。
 Mさん自身は異動先の人間関係が不安だから医事係に残りたいと言いボスを喜ばせている。ここしばらくは診療報酬改定の準備で皆忙しくしていたし、気晴らしで飲める者はいつもより良く飲んだと思う。

 レストランを出て2次会と称し行きつけのラウンジに入った。ボックス席は予約や先客で全て埋まっていたのでボス以下をカウンターに連れて行く。
 カウンターにはかつてお世話になった大先輩がいて、ボス以下と挨拶させてもらう。ボックス席の一つには俺の前の勤務先の一同が揃っていて、当時のボスにちょっと来いと呼ばれてボックス席に入り、そちらの新年度の体制や配置について話していた。
 映像撮影担当のTさんがつい最近6Dを購入したと言う。動画撮影の際のリアルタイムAFがない事で散々6Dについて文句を言い合い、ふと振り返るとカウンターにI君の姿がなく、席がひとつぽつんと空いている。
 カウンターに戻って尋ねると、Mさんが「急に立ち上がって、行っちゃった」と答えた。そう言えばレストランでカラオケで歌いたいようなことを言っていたな。とすると彼が好んでいくあるカラオケバーに独りで行ってしまったのだろう。
 途中で抜けるのは全く構わないし理由も何でもいいが、ボスに一言も断りを入れずに立ち去るとは…。
 Y君とその非常識さについて話していると、今日はずっと素面のMさんが、真顔であっけらかんと言った。
 「Iさんて、本当、変な人ですよね」
 誰も否定せず笑うしかなかった。
 皆、ヲタクであることを隠さず普段から職場でアニメの話題で盛り上がり、自由時間は全部ゲームに使っていると公言する二十代のI君のことを確かに変わり者だとは思っている。が、その言葉を口に出して言う者はいなかった。皆大人だから、同僚であり後輩である彼を心配したり、どう強調して仕事をしてもらうかについては色々と考えたり話題にするが、人格についてそこまではっきりした表現を使うことは無意識に避けていたのだろう。
 その一言の後はずっとI君の変人さについての困惑と混乱の話題が続いた。結局、皆彼の仕事ぶりには及第点以上のものを感じているのに、アニメ・ゲームの話題限定で、その日の気分によって周囲への態度が大きく変わってしまうI君を扱いづらい困った奴だと思っているのだ。それはMさんも同じだったようだが、彼女は「でも、Iさんが機嫌悪くて黙っている時に、うまく乗らせて喋らせる会話方法覚えましたよ!」と言って一同を笑わせた。
笑ったのは良かったが、その一言はI君よりは少し年下の彼女が、本心では先輩のI君を尊敬できず、下に見てうまく使っているつもりだという証拠だった。
 つい数日前、I君が先日仲の良い友達といわゆる聖地巡礼に行き、その際に購入したヲタクスポットのお土産を配ってくれた。もちろん萌えキャラが描かれたお菓子などもあって、また彼がメイドカフェで撮った記念写真なども見せてくれて係内はその話で盛り上がったのだが、その時の事もMさんは「何ていうかちょっとキモくないですか?」と振り返る。
 どれだけ普段仲良くしているように見えても、一般人から見ればヲタクの行動などその一言に尽きるのだ。それがたとえMさんでも、だ。

 I君の話題から、今まで医事課にいたいろんな人々の人柄について思い出話に広がった。歴代のボスや、クセもあり実力もあり、医事課を引っ張った沢山の先輩達。
 個性が強過ぎて大変な時もあったけど、皆仕事のレベルは高くて楽しかったとボスは笑いながら言う。今ではほぼ全部の業務が外部委託になり皆が持っていたはずの知識は失われ、とてもその当時の仕事のレベルは再現できない。ボスがやりたいと思っていることを、部下である我々は実現できるのだろうか。

 少し酔いが回りすぎ、熱いコーヒーを淹れてもらったところで俺のIS11Tが鳴った。いなくなったI君からだった。今どこにいますか?と聞くので「お前はあの店か?黙って出て行くのはダメだろう」と注意したがそれには答えず、店に独りでいるという。来てほしいとは言わなかったがそういう事だ。
 彼の居場所を確認したことをボスに報告して時計を見ると23時過ぎだった。ボスが解散を宣言して、俺はY君とI君がいるバーへ向かった。
 バーに入ると、店内に客はI君独りだった。元々あまりその店は流行っているとは言えず、いつもI君の貸し切りのようなものだ。
 3人でカウンターに着いて俺はコークハイを頼んだ。Y君はすぐ帰るからと注文は入れなかったのだが、そこでふとある予感がして俺はY君に、お茶だけでも飲んで座っていてくれと頼んだ。
 I君は既に7曲ばかり熱唱したと言う。最近歌い方を変えたので、聞いてみてほしいとコブクロから1曲歌ってくれたが、本当に上手くて掛け値なしに感動ものだった。俺の知り合いでここまで歌が上手い奴は他にいない。
 Y君も付き合いで歌ってくれた。彼も上手い方だが、I君には到底及ばないと思われた。
 1曲ずつ歌って座り直し、I君に無断でラウンジを立ち去ったことを改めて注意した。頼むから一言ボスに断ってから行くべきだったと説明し、どうしてそんなことをしたんだ?と尋ねてみた。
 言葉を言い終わる前に、俺はさっきの予感が当たりだったと気がついていた。
 彼は笑顔で、いやー、さっきの店の雰囲気がダメだったんです、と答えた。あれか、店の中が関係者ばかりで皆勝手に喋っていて、ウチの係の話ができなかったからか?と聞き直すと、そうではないと言う。
 しかし、あの雰囲気がダメだったんです、と再び繰り返した彼は、静かに泣き出した。
 涙の理由は明白だったのだが、念のため確かめる。「あのことか?」
 
 焼酎の水割りをすすりながら結局、I君はMさんのことが好きだと認めた。
 「だけど月末にはいなくなっちゃうから」
 いやいや、いなくなるわけじゃない。天井1枚向こうに移るだけだ。向こうも我々も普段から行き来しているのだから顔を見ない日はないだろう。そう言うが、あまり聞く耳を持つ様子はなかった。
 「本当は今日の会のどこかで気持ち伝えたかったんすけど、どうしても言えなくて」
 そこで再び泣き出す。
 I君を挟んで座るY君に目線を送ると、彼は煙草をふかしながら「やっぱり」という風な表情で天井を見上げていた。
 「31日までに言うつもりで…」
 俺は以前ボスから受けていた指示を思い出し、彼を思いとどまらせるよう説得を図る。
 「退路を断って悲壮感を自分で演出して舞い上がっているだけじゃないか。頭を冷やして時間を置け。何度も言うが相手は連絡も付かんような地の果てに行くわけじゃない。4月に入って仕事のゴタゴタがお互いに収まってからでいいじゃないか」
 「でも、その間に他の誰かがMちゃんと付き合いだしたらどうするんですか」
 「Mちゃんに今彼氏がいるかも知れないとは考えないのか。あいつ、去年の春から一体何度そういう話が出たか思い出してみろよ」
 「今は多分いないと思います。少し前、振られたって言ってましたから」
 MさんとI君はデスクが向かい同士で、普段からよく話しているためMさんの状況を俺よりよく分かっている。
 
 「俺、体も弱いし、色々迷惑かけるかも知れないって迷うんですけど、それでも彼女を、守っていきたいって思えるんです…」
 
 俺は初めこそ、ボスの意向を踏まえて話していた。実のところ、可能性は全くないわけでもないだろうと甘く考えていたのだ。
 しかしこうして話しながら考えれば考える程、実際には成功の余地がない無謀な試みだと感じるようになってきた。
 I君はある意味、存在しないMさんの虚像を追いかけているのだ。
 ヲタクを公言する相手にも親しげに話しかけてくる人見知りしないMさん。また外見もかなり可愛いから、それだけでI君が舞い上がってしまったのは無理もない。
 だが、以前I君に言い含めたとおり、Mさんの人当たりは職場で生き抜くための方策なのだ。I君のヲタク話にいつも笑って付き合ってくれたり、女の子の間で流行っているお菓子を分けてくれたり、忘年会の仮装でI君の化粧を手伝ってくれたり…そういうI君にとってのMさんとのエピソードは、ほぼ全てMさんの演技によって出来上がったものだと言って過言ではない。それをI君は、ヲタクに偏見を持たない純真無垢なMさんだと誤解したのだ。
 I君がMさんを守る?真逆の話だ。
 Y君も彼の思いが成就することはあり得ないと理解しているので引き止めに加わるが、I君は押し黙る。
 コークハイと、水割りと、お茶は少しずつ減り、そのうちグラスは空になり、ママがまたグラスを満たす。言葉は宙を飛び交って時間は過ぎていった。
 しかし結局、I君の意思はほとんど変わらなかった。
 Y君が言った。「そこまでなら、言ってしまえ。行けよ」
 「…。」
 「今日明日行っても、上手く行くとは思えんけどな。Mちゃんとの関係も、職場の空気も変わっちまうぞ」
 「…。」
 しばらく沈黙が続いた後、I君は重くなった口を開いた。
 「じゃあ、決めました。3月中か4月に入ってからか分からないけど、なるだけ近い内に、いいタイミング見つけたら言うことにします。職場じゃない方がいいと思うけど、どこになるか分からないですけど…」
 
 タクシーを呼んでI君を乗せて送り出し、俺とY君も店を出た。
 「Gungunmeteoさんあそこまで言うとは思いませんでしたよ」
 「仕方ないだろ。失敗した後の職場の状態考えたら止めた方がいい。ボスからも言われてるしな」
 「確か『好きかどうか分からない』って話じゃなかったですかね。でも正直なところ、ホワイトデーの時に『こいつ、本気だわ』と確信したんですよね」
 「何かあったか?」
 「ホワイトデーの義理チョコへのお返しの用意、我々はボス達が通販でお菓子を買うのに相乗りさせてもらいましたよね」
 「I君も含めてな」
 「いえ、あいつはその話には乗らずに、自分で買ってきたんですよ。わざわざ休みに大阪まで行って、そのためだけに」
 「へぇ。それ、Mちゃんにだけ?」
 「そうです。Mちゃんに渡す時にそのことを言ったようで、何でそんな遠いところまで行って買ってくるんだってMちゃんが薄気味悪がってたんです」
 「そうか、報われん努力だったな。だけどあいつは本当に真面目で、シャイで純粋だな」
 「そうです。だから、できれば軟着陸させて、失敗でもいい経験に変えてやれればと思うんですがね」
 「はぁ…何かいい方法ないもんかな」
 春先の、もう寒さもそれほど感じなくなった深夜の街路。