花束を。

 Mさんは正式には今日が最後の医事係勤務であるが、既に彼女の席は9割がたY君の荷物で占められており、またMさん自身も移動先である管理部門で、これまた異動で院外へ転出する先輩職員からの業務引継ぎを受けているためほぼ終日不在だった。
 出勤して間もなく。明日からの消費税改定の準備に漏れがないか点検に追われているY君と俺だったが、ボスからふと耳打ちがあった。
 『I君がMさんへの花束贈呈役に立候補してきた。どうにかできないの?』
 今日の終礼で、医事係から転出する数名の職員へ記念の花束贈呈式が行われる。普通はそんなものは適当にボスが指名するものだ。そこへ特にMさんへの贈呈役にI君が名乗りを上げるとは。もちろん意図があってのことだろう。
 ボスはMさんが嫌がるのは自明なので、I君に断念させるよう働きかけろというわけだ。このクソ忙しい時に…。
 そういえば、今日はI君の元気がない。明らかに表情が固く気分が落ち込んでいる。
 ちょうど隣室の大ボスSさんの所へボスが花束贈呈式の相談に行ったところで、そっと俺はLINEメッセージを撃った。
 「ボスがI君をMさんへの贈呈係に指名するという話が聞こえてきた。もしボスから話を持ちかけられても断った方がいい。Mさんは先日の告白を蹴ったばかりなのに、それでもまた彼女の前に立つような真似をすれば傷口に塩を塗るような結果にしかならないのではないか」
 しばらくして返信があった。贈呈係は自分から申し出たこと、できれば最後に少し話す機会がほしかったこと、しかしそれほど大した話がしたかったのではなく、先輩らしいことをしてやれなかったことを謝罪したかったのだ…と、正直に語ってくれた。
 いじらしい話だと思った。しかし、下手をするとその謝罪がI君とMさんの関係に止めを刺してしまう気がした。短いながらも楽しく過ごしたと本人が喜んでいたのに、I君が巻き起こしたトラブルでここ数日はMさんの気持ちは困惑だけだったはずだ。そんな日々の最後で再びI君が目の前に現れれば、彼との思い出は全て嫌悪にしかならなくなる…。
 やがてボスから、I君が贈呈役を取り下げてきたと安堵のメールが届いた。
 俺はひどく複雑な思いでそれを読んだ。

 いろいろと忙しい一日が暮れ、終礼で花束贈呈がつつがなく行われ、異動する人、退職する人、それぞれがそれぞれの言葉で挨拶を述べられた。
 それを聞きながら、ふとこの場にI君がいないことに気が付いた。
 ボスに耳打ちすると、少し前から姿が見えなくなっていたとのことで、どこにいるのか尋ねてみよとの指示。またLINEで体調の具合と居場所を尋ねた。
 少しの間があり、返信があった。
 告白の翌日からMさんの態度が冷たくなっていること、なぜそのような態度をとられるのか理由が分からず納得出来ない、またそのことで緊張が続いたのか頭痛が激しく少し休みたいとの内容だった。
 「相手の態度の理由が分からない」
 そんなもの、理由なんかないに決まってるじゃないか。ありていに言えば、嫌われたんだ。もともと生理的に好かれていなかったが、告白というアクションの結果、話を聞いたほぼ全ての人が予想したとおりに悪化した。それだけだ。
 なのに、彼はその理由を探して悩んでいる。生まれつきか養育の結果か他人の感情を想像するのが不得意な彼には、理解することは困難かもしれない。
 
 医事用の価格設定を、明日からの消費税増税に備えて修正を続けてきた。今夜は点検の最後の機会なので、ボスから必要に応じて残業の指示を出すよう許可をもらっていた。Y君とMさんは応じてくれたが、I君はそのまま作業させるのは難しいだろうと考え、念のため戻ってきた所で参加の可否を訪ねようと思っていた。ところが現れたI君は、まさに残業の準備を始めているY君とMさんを一目見て、俺に「残業は、甘えです(キリッ)」と言い放って、そのまま帰ってしまった。
 開いた口が塞がらないボスと俺。MさんはY君に「ありえなくないですかあの態度」とメッセージを送っている。「やっぱり、あいつに口の聞き方を教えるべきだ」とY君。
 「病気のことも、心が弱いことも大きなハンデだと思って配慮してきたつもりだけど、甘やかしすぎたかしら」とボス。
 この数日の彼に同情を禁じ得なかった俺だったが、さすがに彼に付き合いきれなくなってきたような気がする。