引き抜き。

 翌朝、目が覚めると特に昨夜の後遺症は見られず、そのまま出勤した。
 新年度に向けて何件も契約書を更新しなければならない。DPCデータの再提出期限も目前で、そんなさなかに急ぎの仕事を伝える電話が鳴る。
 集まってきた仕事をこなしながら気が付けばもう午後だった。昼食は昨夜のこともあり取っていない。
 少しくたびれたと感じていると、ボスから別室に呼び出された。
 何事かと内心おびえながら行ってみると、春の定期人事により我々の中から一人、別の業務へ引き抜かれるとの残念な知らせだった。しかもそれはMさんだという。
 Mさんは高校を卒業してすぐ採用されたこともあってか服装などいろいろと先輩から指摘されるような問題があって、昨年異動してきた時には使い物になるか分からないから、という大変失礼な理由で医事に配属された。ところが実際に一緒に働いてみると、窓口や電話応対はすばらしいし、診療所の会計をひとつ任せてみても医事の知識がなく誰も満足に指導できない有様の中、ほんの2ヶ月ほどで一人立ちしてしまった。それどころかレセプト集計や電算業務など、ちょっと手が立て込んでいる様子に気が付いたなら「教えてください!何でもやります!」とどんどん力を貸してくれて業務の知識も蓄えてしまい、今では年齢でははるかに上のOさんや先輩のI君よりも評価が高い。また持ち合わせた愛嬌とコミュ力で医事課のマスコットとも言える存在になった。
 ボスはMさんの働きを見て、本来はOさんが引き受ける計画だった労災や自賠責請求などの業務もMさんに任せようと考えていた。もちろんMさんはそれを受け持っても全く問題なくこなせるだろうし、もしかすると他の皆の業務も少しずつならかじって対応できるようになるかもしれない。そんな期待が彼女に掛けられていた。
 ところが、事務局長は自分が座る事務室内のある業務の担当者がこの異動の対象となって転出してしまい手薄になるからと、Mさんを指名で後釜にすえるというのだ。その業務はITシステム導入で専属の担当者が不要となった業務だったはずで、そのために担当者が異動対象になるはずだったのだが。
 ボスは、当初は厄介者を押し付けられたと散々にこき下ろしていたくせに、使い物になると分かった途端に手のひらを返して自分の下へ連れて行く事務局長に対して静かに怒りを燃やしている。怒りの炎の根元には、事務局長周辺が医事業務を非常に軽視した態度を取っている事がある。既にあらゆる窓口を業務委託化し、レセプト作成だけでなく総括や請求業務全ても委託することが可能であるから、仮に受託業者のレセプト精度が悪く収入が落ち込んだとしても、人件費の削減幅で上回ればよいということだ。理屈ではそうだが、ボスの下へ日々持ち込まれてくる医事従事者としては考えられないような請求漏れや誤り、あるいはレセプトには現れない、患者さんとのトラブル。それを押し留めているのは、ボスを始めわずかに残った経験豊富で責任感を持つベテラン達だ。ボス達がそこからも手を引いたとき、誰が保険請求に責任を持てるのだろう。
 Mさんにさせる仕事は確かに様々あるだろうが、とどのつまり「あの局長はいつも言うことを聞く、働き者で愛想を振りまいてくれるかわいらしい女の子を自分の目に入るところへ置いておきたがり、子分格も医事に置くよりはいいとそろって賛成したのよ」と、身も蓋もない表現で斬って捨てた。