他人ごと。

 今日は夕刻から診療報酬改定に関する医師会主催のセミナーに医事業務関係者一同と出席。どちらかと言えば開業医向けの説明に力点が置かれた内容だったが今般改定の復習と考えて必死に聞く。
 最近医事関係者が気にしているのは施設係の某担当者の仕事ぶりだ。というのはこの人はキャリアは長いのに仕事の遅れや漏れが多いと大変不評で、それなのに施設基準の申請担当者なのだ。昨年の監査で不備を指摘され返還金が発生したのも、元はといえばその人がかなり以前から問題を指摘されながらも何も手を打たなかったからだと噂されている。
 その担当者も当然のことながら改定に関するセミナーや説明会にはもれなく出席して変更点を頭に叩きこまなければならないと考えられるが、とにかくこちらから言わなければ動かない。このセミナーもとにかく来てほしいとうちのボスが頼んで呼んだようなものだそうだ。
 往路、車を運転しながら俺はその担当者U係長に施設基準届け出の予定をどう考えているか切り出してみた。U係長と俺はボス達から比較的関係が良好だと思われているようで、何かあると俺を通じてU係長に連絡するような状態になっている。今日もどうでも良い雑談を散々車内で続けていた流れでの話題だった。しかしU係長は急に口ごもって黙りこんでしまった。はるかに年下の俺から仕事の催促を受けるというのは誰であれ沽券に関わるだろうし、また後席に座るのは俺のボスとそのボスを背後で操る大ボスの二人であり、U係長にしてみれば乗車した瞬間からいつこの話題が出るか気が気でなかったのかもしれない。答えがないのは残念だったが、また話題を変えて到着までの間、車内の空気が凍らないよう話し続ける。
 セミナー会場はある文化ホールで、先に会場に入っていた人が我々全員分の席を抑えてくれていた。ところがU係長はどうも席がボス達の至近だったため落ち着かないらしく、はるかに前にある関係者向けの席に移動してしまった。分からないことがあればその場で近くの人に聞けるのだから近くにいればいいのに、とボスが呼びかけたがU係長は戻ってくる様子はなかった。子供じゃないんだから…。仕方ないので俺が付いていくが、U係長は「みんな一緒に来るのかと思った。こっちの方が聴きやすくていいに決まっているのになぁ」と平然としている。そうなのかも知れないが、アンタの態度はそうは取られなかったぞ。
 
 今回の改定では現在存在する病床の運用目的をどうしていくか、9月までの移行期間を挟んで決定しなければならない。セミナー後、帰り道の後席でボス達がその検討方法で頭を悩ませている間もU係長は全く空気を読むことなく、仕事に全く関係ない雑談に没頭していた。
 
 先輩達のギクシャクした空気に疲れた俺は、解散した後まっすぐアパートに帰った。既に時刻は22時だが、部屋の窓に灯りはなかった。ドアはしっかり施錠されている。ああそうか、今日は妻が鍵を持って出勤したのだった。だが残業の予定は聞いていなかったな。聞いたけど忘れたんだったか。妻の職場に行ってみると、とっくに全員が帰宅している様子だ。困った、鍵はどこにあるのだろうか?。妻の携帯に電話するが全く出る気配がない。
 近くのコンビニにブリットを止めて時間をつぶすが連絡はなかった。何度か電話をかけ直すがやはり出ない。何かの事情で実家に向かったのだろうか。妻の実家は携帯電話の圏外にあり、固定電話はあるものの耳が遠い義父が出ると会話にならない。
 もしかすると職場の別の部屋で残業しているのかも知れないと思い、コンビニから出て走りだしたところで携帯がなった。出てみると前の職場のI君からで、コンビニから職場に向かったのを見かけたがどうしたか?と尋ねられた。I君も残業帰りでコンビニに立ち寄っていたという。事情を話すと一笑され、今夜は課室の送別会だと教えられた。はて、そんな事初めて聞いたような。
 まあそれで妻の帰宅は遅いことがわかったので、I君を誘って遅い夕食に出た。開いている店は少なかったが、よく行く蕎麦屋が店を開けていたので入って天ぷらそばを頼んで、I君と近況を交換する。
 今年の人事異動では、俺の後任の電算担当だったI君が後輩S君に仕事を譲って係内の別業務に転出することになっている。その下にWEBデザイナー経験者の女の子が入ってくると聞いていたので、俺が中途半端に構築したせいで未完成のままの公式WEBサイトが改良できるな、と喜ぶと、いやそれが頭痛の種なんですとI君が言う。女の子の方とはWEBサイト業務に関してやりとりしたことはあったので人柄くらいは知っている。何も問題はなさそうだが…。彼女が元いた部門は有能だが一癖も二癖もあるスタッフが揃っていたから、俺が知らないところで何か変なトラブルでも起こしたのかも知れない。
 またI君・S君達の上司として、全く電算業務に関する知識がないMさんがやってくる。Mさんは若い頃は本当に美人で人気があり、今でも外見は非常にいいが仕事はしないことで有名な人物だ。本当に大丈夫なのかと尋ねたが、I君は「何とかするしかないんです」とつぶやいた。俺は心配するだけで何かしてやれるわけではない。I君は上司先輩を使うのが上手い策士だから、何とかしてしまうのだろうが…。
 新人事の裏話がI君の口から幾つか漏れ出てきた。こんな話をしていいかわからないんですが…とI君が続けようとしたところで、店内に別の業務の担当者達が入ってきて、秘密の会話は終わった。