たまねぎ地獄変。

 昨夜、仕事が遅くなり帰宅したのは23時頃だった。アパートに入ると眠っていたらしい妻が起き出して来て、食べる物がないので今から適当に作ると言う。こんな時間だしすぐ近所のコンビニで適当に買ってくるからいらないと答えたが妻は料理を始めてしまった。しかし食材がないといいながら何を作る気なのか…。
 まぁ、もうブリットを出すことはなさそうだ。残り半分くらいになった竹鶴12年のボトルからグラス半分くらい注いで飲んでしまう。最近はさっさと眠りたい時は一杯呷る事に決めている。
 最初に出てきたのは、俺が昨日近所のスーパーで買ってきた半額シール付きの魚のフライだった。体感上冷蔵庫に入れておけば4日くらいは平気で食べられるので、自分が買い物に行くときにはひたすら買い込んでくるようにしている。そこまではよかった。
 次に出てきたのはカイワレ大根の束だった。あのパックに入ったのが1個分丸ごと皿に乗って、少しマヨネーズがかかっている。嫌いじゃないから食べるのはいいが、何せ辛い。ご飯はまだだ。アパートにある炊飯器は保温に入ると半日で味が変わると妻がいい、いつも炊いたらすぐ取り出して冷蔵庫に移されてしまう。なので食べる時は毎回電子レンジで加熱しないといけない。
 最後の奴は強敵だった。たまねぎが丸ごと1個分、スライスされて皿に乗せられ出現したのだ。水でさらしたりとか、塩でもんだりといったような下処理は一切されていないたまねぎ。それに妻は少しポン酢をかけただけだ。
 こんなものが食えるわけがないだろうが。
 そう言うと妻はお店で食べるサラダと同じだ、新玉だからそのまま食べるのが一番おいしいのだと強弁する。ここで俺は妻の言葉を信じてしまった。
 食に関しての常識というものは完全に存在しない俺に対して妻はよくこれはこう、あれはこうと食材の食べ方を指南する。馬耳東風豚に真珠で全く理解したり記憶したりしないのだが、とにかくそういうのならそうなのだろうという一種の盲信、思考停止を来たすようになっていたのだ。
 確かに一口、二口目はよかった。シャキシャキとした歯ごたえに想像以上の甘みがあって、これなら全部いけるんじゃないか?と思わないでもなかった。ところが半分を過ぎるとやはり辛味が強くなり、終わりの方にはあの何とも表現しがたいエグ味、食道から胃にかけてのムズがゆさや冷感しかしなくなっていた。
 ふと振り返ると妻は2個目のたまねぎをスライスしようとしていたのでとにかくそれは止めさせた。聞くと俺が帰宅する前に、半分くらいの量で自分自身が食べたがおいしかったので、もっと食べさせようと思ったそうだ。止めてくれ。
 
 明日もまた仕事が溜まっている。食後すぐコタツに潜り込んで眠りについた。
 
 何時ごろだったか、恐らく01時頃だと思うが、胃がグルグル回るような違和感で目が覚めた。コタツの電源は入っているのにやたらと寒い。起き上がるのは面倒なのでごろごろと転がって楽になれそうな姿勢を探すが、どうにも落ち着かない。
 自分の頭のすぐ後ろで、ラジオのホワイトノイズや炭酸飲料の細かい泡が弾け続けるような音が聞こえてきた。何だこれはと耳をふさいだところで、耳鳴りだとわかる。
 視界が暗くなり、手足も重くしびれてきた。これは貧血だろうと気が付いたが、今まで体験したのは全て起立性貧血ばかりで、こうして横になっているのにここまで強い症状が出てくるのは初めてだ。
 ものすごい吐き気がしてきた。コタツ布団に吐しゃ物をかけたら妻や義母にどんな目に遭わされるか分からない。何せ実家に行って猫を抱っこしてきたら、その毛が一本残らずなくなるまで玄関で粘着ローラーで掃除させる連中だ。
 とにかく、どうにかしてトイレまで行こう。
 そう思ってコタツから這い出た。とっくに視界はほぼ全てきめの細かい灰色の砂嵐でいっぱいだったが、狭いアパートの部屋を何歩か進んで、トイレのドアにたどり着いたような気がする。
 段ボール箱を蹴り飛ばすような、ドカンドカンという音を聞いたような気もするが、そこから先はちょっと記憶がない。
 
 妻が声を掛けてきたので、何がしか返事はしたと思う。ちょうど意識が戻りかけたところで、目の前には以前ブリットから降ろして整理中だったカーケア用品などの荷物が入ったいくつかのダンボール箱があったが、ひとつはひっくり返っていた。
 どうも自分はトイレのドアに取り付く前に、廊下に倒れたらしい。顔面から落ちたのかメガネのフレームは派手に曲がっていて片方の耳にぶらさがっていた。妻はドタンと大きな物音を聞いて自分の寝室から飛び出してきたのだった。
 まだ吐いてはいなかったから気を失っていたのは割と短時間だったと思われる。廊下に寝そべっていたのを、何とか手足を動かして立ち上がってトイレに入ったが、しゃがみ込むとそのまま転がってしまいそうなくらい足がおぼつかないのでトイレのふたをして座った。
 とんでもなく気分が悪い。頭の血流が足りずすぐに視界が暗転するので、座ったまま前のめりになって頭を胸より低くする。そうしているとどうにか自分の状態を考えられるほどには楽になる。今すぐ吐きそうだが、そうすると足にかかって服が汚れる。いやスリッパも、そのあたりに積んであるトイレットペーパーも使えなくなりひどく叱られるだろう。床にあふれたらどうしようか。飛び散って壁にかかって染みになったらどうやって掃除すればいいのだろうか。いやバケツか何かに入れればいいじゃないか。そうだバケツは…確かあの部屋のどこかにあったような、なかったような。あの部屋ってどこだったか。トイレを出て右か、左か。それどころか立って歩けない。這いずって行くしかないが、その途中にはカメラ機材やその他のモノが大量に置かれていて、それを越えて行ってはバケツに間に合わない。誰か持ってきてくれないか。いや、さっき誰かいたと思ったのだが。誰だっけ?…。
 その誰かが誰だったのかを思い出して、かすれ声でバケツを頼んだ。返事はとても遠くで聞こえたようだったが、いつの間にか目の前にバケツが出現した。間に合った。
 
 一度吐いてしまえば今までの悪心がウソのように楽になったが代わりにバケツは恐るべき量の吐しゃ物で一杯になった。
 一体自分の胃までのわずかな消化器にこれだけの容量があるものか?と驚いたが、その中身はほとんどがたまねぎなのだった。
 たまねぎだ。たまねぎのせいだ…。
 俺はまだ続くめまいと喉を焼くあのたまねぎ刺激の地獄の中でそう犯人の名を訴えたのだが、妻は「あなたが飲んだウイスキーのせいじゃないかしら」と聞き流して自室へと消えていった。
 
 ま、まさか…。
 これは先日、20年ぶりに解約して戻ってきた住宅財形預金を狙った、妻の計画だったのではないのか?。
 恐ろしい可能性に思い当たった俺だったが、嘔吐の疲労で再びコタツ布団の上に倒れ付し、一度は断ち切られた眠りの世界へ沈んでいった。