こいつ…。

 気落ちしながら仕事をしていて、ボス以下のスタッフが所用でオフィスからいなくなる時間があった。
 室内には俺と男性最年少のI君の二人だけだったのだが、I君がやけに具合の悪そうな顔をしてフラフラしている。「なんだか胸が苦しい。熱っぽい」という。彼は慢性疾患があり時折休息が必要なのですぐに救急外来へ行って休むよう言うが、なぜか従わずに自分のデスクに突っ伏している。
 受診するほどではないと主張するので、それならもう診療時間は後1時間もないのだから早退せよと指示したが、仕事もたくさんあるので帰れないとのこと。そう言えば昨日・一昨日と無申告で残業したとか言っていたな…。彼に対しては雇用時の申し合わせでボスの指示以外の残業はさせないことになっているのだが、時々無申告・事後報告で勝手に残業していることがあるらしくボスが勤務管理できないと困っているのだ。
 そんなに仕事が残っているのなら、俺とY君で片付けるからと説得するが否応とも返事をせず、どうしてもと言うなら、ボスに申請して明日以降に休日出勤させてもらおうかと聞くが「もう少ししたら身内が帰省してくるので迎えに行かなければ…」とそれも拒絶する。一体どうしろと言うのか。どんな仕事なのかと尋ねても説明しないが「Y君は知ってる」「Oさんも気づいているかも」と、なぜかおかしな仄めかしを始めた。
 そのうちボス他のスタッフが戻ってきたので彼の不調を伝え、一同で休むよう説得するがやはり聞く耳を持たない。それどころかボスが声をかけても返事すらしなくなった。よく見るとハンカチを顔に当てて泣いているではないか。ただ事ではないと思ったが、なぜかY君は鼻で笑って見ているだけだ。
 I君の前のデスクに座るMさんは困惑一色となった室内から抜け出すタイミングを見極められず固まっているところを、Y君に促されて帰宅していった。
 
 I君の隣のOさんが気を遣って小声で彼に話しかけ、その後しばらくして上席の俺にそっとメモを差し出してきた。
 「何か悩み事があるというのですが男同士でないと分からないそうです。GungunmeteoさんとY君とで聞いてあげてください」と記してある。
 何だというのだ一体。そうだY君は知ってるとか言ってたな。Y君の端末に事情を説明してほしいとメッセージを送ると「先輩・後輩間の人間関係に悩みがあるらしいんですが…私も聞かされましたが実に些細な内容だと思いました」と返ってきた。Oさんからは早く何とかしてやってと痛い視線が飛んでくる。本当に何なんだ。
 都合よく他部門に届ける書類が出来上がったので、彼のデスクへLINEを読むよう記したメモを落としてオフィスを出た。それから病棟へ上がり、目につかないところでLINEで悩みを聞くから飲みに行くか?とメッセージをI君に送る。
 送ったところで彼の具合の悪さを思い出し、面談室に場所を変えようと追加送信する前に返事が返ってきた。「ぜひお願いします!」だと。
 …お前、具合悪いんじゃないのかよ。
 一応Y君にもLINEで声をかけたが家事があるので無理との返事。仕方なく2人で出ることに決めた。
 オフィスに戻る手前で顔なじみの検査技師さんと年末のご挨拶をしているところにボスが慌てた様子でやってきた。
 「今日飲みに行くことに決めたんですって?私I君から相談されてたことがあるんだけど」
 人気のないロビーの片隅でボスから話を聞く。I君は彼の目の前に席がある後輩のMさんの態度がここ数日急に冷たくなったことが気になって、どうすればよいかとボスに相談してきたらしい。
 そんなこと全然気がつかなかった。二人ともちゃんといつも仕事をしていると思っていたのだが。
 もちろん問題はそこではなかった。
 Mさんは今年成人したばかりの若い子だが、少しでも手が空けば人の仕事をどんどん手伝い、仕事に関して勉強したいと思えば自発的に講習に通い、Drにも患者にも物怖じせず関わっていく働き者だ。見た目は茶髪ストレートにカラコンと今時の若い女の子だが、美人で愛嬌もある。たぶん相当モテると思うのだが、つい先日失恋したばかりと本人は言っていた。
 ボスはI君がほぼ確実にMさんに恋愛感情を持っていると言う。
 「じゃなかったら後輩がそっけなくなったくらいで悩むことなんかある?」
 それはそうだ。相手が男だったらムカつくがそれ以上のことはない。毎日淡々と仕事をすればよいだけだ。ボスはMさんに事実関係を確認したが、態度など何も変えていないとの返事をもらっているらしい。しかもI君自身もMさんに直接「何か気分を害することをしたのなら教えてほしい」と聞いているようだ。
 どうすればいいですか?と尋ねると、ボスはとにかくこれは恋愛ではない、仕事上の付き合いなのだから仕事が進むように接するだけだと念押ししろとの指示。
 何てことだ…。
 
 仕方なく約束通り連れ出して2人で飲んだ。正確にはI君は車を持って帰りたいとお茶だけで済ませている。
 初めは店に他に客がおらずママと3人で話すのに抵抗がある印象だったので、時間稼ぎのためヲタなI君に合わせてガンダムネタ・ゲームネタで会話を引っ張った。客が増えて店内の喧騒が高まった頃で今日の本題を切り出してみたが、結局彼の口から出てくる悩みとは、ボスの言う通りの内容だった。
 愛想がよく見えても話しやすい相手でもそれは相手の対人スキルの巧妙であって、職場である限りその目的を極論すれば、お互いに仕事を頼めるか引き受けられるかでしかない。
 それ以上のことを求めることも、求められるのも同僚であるなら止めておけと話したが、果たしてどれだけ伝わったのだろうか。
 
 最後に「お前、本当にMさんに恋愛感情ないんだよな?」と念押しをしてみた。
 すると「僕、中学生の頃から告白されるばっかりで、自分から告白したことなんかないんです。だから恋愛感情ってどんなのか分かりません」と、胸糞が悪くなる言い回しで明言を避けた。
 こいつ明るいヲタクだと思っていたが、リアル厨二病かよ。
 一体年幾つだよお前は…。
 
 しかも店出ようとしたら請求書に1万円て書いてある。確かに4時間居座ったのは悪かったが、水割り2杯に茶2杯でボリ過ぎだろうこの店は。
 
 午前0時過ぎに分かれて帰宅し、寝る前にふと気がついた。
 I君は最初言いにくい相談事を俺にそっと相談しようとするようなそぶりだったが、結局はボスにもY君にも相談済みだった。
 もしかして、我々はMさんへの心理的圧迫をかけるための追い込み漁の道具にされたのではないのか…。