後輩、Hさん。

 今年、今の会社で採用された新人の中に、以前の会社で部下だったHさんの姿があった。

 前の会社で俺の退職が発表されるより1ヶ月前。
 退職願が受理され、総務部門間での在職歴の引き継ぎもほぼ終わったところで、俺はまず自分の係員へ退職を伝えるため季節業務の打ち上げを名目に懇親会を企画した。ところがD君の都合が合わず延期となり、このままでは定期異動発表に間に合わなくなったため、やむなく個別に説明していくことにした。
 俺は正月以降、事あるごとに「4月には俺は確実にいなくなるから持ち越しできない未決の課題があったら報告しろ」と伝えていた。今まで俺はそのようなことを公言したことはなかった。
 D君やUさんは単に俺の異動が内定しているだけと捉えていた。もちろん通常、そうであっても正式発表前に当人が公言することはあり得ないのだが、Hさんだけは俺との今までの会話の中で薄々思い当たっている様子だったので、それも考慮して最初に彼女に伝えることにした。
 その日の終業後、陽が落ちた職員玄関から彼女の車までいつものように雑談しながら歩き、退職することを伝えた瞬間、彼女は眼を見開いて「…ん?!」と呻いた。
 「詳しい説明がいるか?」
 「いりますね」
 「今からお茶にでも行くか」
 「はい。でもお茶よりご飯ですね」
 いつもの居酒屋のカウンターで、この数ヶ月の経緯を全て説明した。
 「…秋ごろから休むパターンも変だし、何かあるなとは思ってましたよ」
 「係長の俺が退職するんだから、係員の君らが異動することはないと思う。新しい係長は俺より有能に決まってるから、よく指示を聞いて働けばいい」
 「今までどおり、仕事にはプライトを持って当たりますよ。その人が人間的にどうかによって付き合い方は別になってきますけど」

 それからしばらく、いつもどおりの年度末の雑然とした忙しさが続いた。その合間にHさんと交わす雑談は一変した。
 「Gungunmeteoさん、私に散々『今からでも違う道に進めるから』って言ってましたよね」
 「そうだね。だいたい、間違ってないと思うけど?」
 「私、30代に入ってからの転職って条件の縛りや待遇悪化とかが当たり前で、実質不可能だと思ってたんですよ」
 「うん」
 「でも目の前で私よりずっと条件厳しいはずのGungunmeteoさんが、待遇そのまま転職なんて無理ゲーあっさりやってのけたんで、もう私毎晩それ考えるだけで『おぇええええ』って死にそうになるんです」
 「今の俺の労働市場での価値を考えれば博打に見えたかもしれないが、転職のセオリーを守ってたわけで、別に退職してから就職活動するような暴挙じゃない。採用されなければ何食わぬ顔で出勤してたよ」
 「そういうことじゃないですよ。『私もやらない理由がなくなった』から、行動しない自分が辛くて胃が痛いんです」

 そして、予想に反してHさんが他部署へ異動という人事発表を最後に見て、俺は会社を去った。

 4月以降しばらくの間は、お互いの新たな職場に関する雑談をSNSで続けていた。Hさんの新しい仕事は今までよりやりがいに満ちていたし、また人間関係は昨年より遥かに改善した様子で、こちらの新生活を羨んで見せることはあっても、彼女が毎日を比較的楽しく過ごしている様子が伝わってきた。
 しかし、その状況に甘んじて彼女が翻意するはずはなかったのだ。

 半年後。俺の会社の求人に応募したと、Hさんから連絡があった。
 彼女から3年間いつもほのめかされていた通りだったし、俺が先に行動に移したことで、彼女自身が言った通り彼女もそれに続かざるを得なくなっていたのだから俺は驚かなかった。
 しかしそれが俺と同じ会社だとは思わなかった。商圏は大きく違うが本質的には同業他社であり、今の会社での彼女の不満が解消されるようには思えなかった。
 試験の要点については可能な範囲でアドバイスをしたが、有能な彼女が採用試験をパスするのはほぼ確実で、見込みどおり初雪が降ってから間もなく、彼女宛に採用通知が届いた。

 4月1日の初出勤に伴うオリエンテーションでさっそく筆記用具を忘れたとHさんから助けを求める連絡があり、始業前ではあったが久しぶりに彼女と顔を合わせた。
 ペンを受け取る彼女の表情は、初日の失敗に慌てながらも、新しい環境への希望に輝いていた。