平成19年新潟県中越沖地震。

 昨日は出かけて帰宅が今朝3時頃になっていた。雑用を済ませてベッドに入ったが、疲れ過ぎていたせいかあまり寝付けず8時頃には目が覚めていた。ここしばらくEOS Kiss Digitalで撮影した画像を整理も現像処理もしていなかったので、EOS Viewerで処理を始めた。
 気が付くと時刻は10時を回っていた。友達からSkypeが掛かってきて、カメラを通して朝っぱらから散々悪態をついて、ちょうど切断した直後に、それは起きた。
 まず、主PCの上に積んであったライブカメラと、Audio-Technicaのヘッドホンが転げ落ちてきた。ほぼ同時に、あの何度か経験した事のある奇妙な眩暈が襲ってきた。それが眩暈ではなく、実際に自分の体が部屋ごと揺れていると意識できるまでにも、ほとんど時間は掛からなかった。
 目の前の21インチCRTが左右に傾ぎ出している。PC本体の上に無造作に重ねてあったDVD媒体の山が崩れ、背後のテーブルに置かれた、普段はスタンバイ状態に入っているサブノートPCが接続されたマウスに入力が掛かったために復帰処理を始めた。
 上を見上げると蛍光灯が振り回されている。PCテーブルの上のペンやフラッシュメモリーが跳ね回ってどんどん床に落ちていった。
 3月末の地震を思い出して身構える。壁際の本棚から本が落とされそうになったところで、始まった時と同様に突然揺れから力が抜けていった。
 すっかり揺れが収まったところで、携帯を掴んで出勤の準備を始めた。と言っても1階で昨日脱ぎっぱなしにしていたジーンズを履いただけで、揺れから2分でブリットを職場に向けて走らせていた。
 
 最も早い呼集対応だったと思ったが、実際に着いてみると休日出勤の先輩が既にオフィスを開けていた。オフィス内の防災コンソールでは震度を5弱と表示している。
 自分も含め新参者ばかりで何から手をつけていいか分からないのが情けないところだったが、課長補佐がやってきてからは指示によって徐々に業務が回り出した。とりあえず気象庁地震情報サイトを確認して震源と震度を把握し、コピーを補佐に渡しておく。
 マスコミから次々被害状況の問い合わせが着電する。中には番組の中での音声出演を依頼するものもいくつかあったが、課長補佐は不要なものは片っ端から断って電話を叩き切る。それほど時間をおかずに、消防、電力や自衛防災組織の担当職員が連絡役としてオフィスに次々入ってきた。
 域内の罹災状況を調査するために各方面に調査班が出発したが、いずれも異状なしとして1時間程度で戻ってきた。空から繰り返し爆音が響いてくる。空自のP3C、UH60J、海上保安庁のビーチクラフト、県庁の防災ヘリ、陸自のUH1J、およそ公的機関が災害時に飛ばせるあらゆる航空機が我々の上空を飛びまわっていた。
 県庁の防災部局からも定期的に報告を求める着電がある。使われていなかった古いテレビをオフィスに持ち込み報道番組を見ながら被害の程度を把握しようと試みる。また市内のそこら中に電話して被害の聞き取りを行った。
 その結果、市内ではほとんど被害らしい被害が出ていないことが分かってきた。3月の震災と比較してそれほど震度に違いがないので不思議な感じだが、その時も市内に限ってみれば当日把握できるような公的インフラへの被害は少なかったものの、後日になって民家の大小の被害の報告が集まるようになり、3ヵ月後にはようやく200件近い住宅損壊の全貌が見えたわけで、今この時点で安心していいわけではない。
 ふと気が付くと、マスコミの取材班がいくつか入ってきてカメラを動きのありそうな職員に向けている。女性リポーターが廊下で収録しているのを、不思議な非日常を感じながら眺めた。私も大きな被害に直面していない余裕があったのだろうか。
 思い立って病院へ電話してみた。負傷者情報を取れるかと思ったのだが、幸いにして病院への被害はなく、さらに地震による負傷者は皆無との返事を得たので補佐へ報告する。
 業務サーバの目視点検を行ったところ、1機UPS側のシャットダウン信号によりシャットダウンが実行されてしまったものがあった。停電はなかったと思っていたので意外だったが、現在の電源状況に問題がなかったため再始動。
 それ以降、県外の大きな被害をマスコミ経由で目にしつつも、市内では大きな動きがないまま。強い余震もあったが新たな被害報告は入らずじまい。
 結局、幸いにして人的被害の報告を受ける事なく、16時までに待機状態が解除された。
 実は先週末で3月の地震に関する事務処理に大きな区切りが付く予定だった。明日以降、また作業が振り出しに戻る事になったわけだ。しかし被害がなかった事だけは救いだった。