具合が悪い人々。

 Z君と二人でほぼ1ヶ月ぶりに飲みに出た。
 半月に一度は飲み歩いていた我々だったが、Z君の体調が急激に悪化したためしばらく控えていたのだった。
 たまたま先週、Hさんも誘って3人で食事会に出た帰り道、我々の仕事に関係する人物が勤めるラウンジにうっかり入ってしまい、図らずもしばらくその人物と対面で話すことになった。
 Z君はそのことでその人物にそれとなく近況を聞き出そうとした。目的の情報を聞き出すことには失敗したものの、我々がいつも通っていたある食堂が長期間閉店状態にあると全く意外な情報を得た。彼女らも理由は知らないとのこと。
 その後泥酔して立つことすらままならないZ君を(いつものように!)抱えてラウンジを出た俺は、帰り道にその食堂に立ち寄り、確かにしばらく開けた気配がないことを確認した。
 この店は店主が高齢で、健康上の問題からいつ店を閉めてもおかしくなかった。もしかすると、いよいよか?。
 
 そして今日の終業後間もなく。
 今日はD君とHさんが終日不在で、Z君と共に外回りと電話対応に追われていた俺は少し体調が悪かったので早めに帰ろうと支度を始めていた。頚椎ヘルニアによる強い頭痛もあった。丁度その時に顔なじみのクレーマーから電話が入り捕まってしまったのでZ君に先に帰るよう合図したが、Z君も別のところからの電話を取ってしまい帰れる様子がない。
 俺の方のクレーマーは別の担当者に申し送って電話を置いたのでZ君の支援に回ろうとすると、どうも苦情等ではなく、どこかの飲食店からの営業電話のようだ。少し聞き耳を立てていると、先日から閉店状態のあの食堂かららしい。
 「来週から?ああ、俺来週はちょっと…え、今夜でも?そんなら行きますわ」
 あっさり営業に乗ったZ君。視線を俺に送ってきているから、俺にも来いということだ。
 今夜は全く気乗りしないのだが、仕方ない。Z君とともに食度へ向かった。
 
 看板に灯は入っておらず暖簾も下げてあったが、店を除くと店主の高齢女性がいつものように出迎えてくれた。
 本当の店主であるはずの夫が急病で入院してしまい、半月あまり介護のため病院に寝泊まりさせられていたとのこと。特に常連客に案内もしないままだったので、再開したことを知らせてきたのだった。
 店はその間ほったらかしで、仕入れも週明けからとのことで、店主が自分の夕食用に買ってきていたスーパーの惣菜と恐らく賞味期限が切れていると思われるビールサーバ内の生ビールでしばらく歓談することとなった。
 Z君は仕事上の問題で俺に意見したい事があって、それとなく話の方向をそちらに向けて来つつあった。要は仕事が遅いD君にどうやって鞭打つかということだ。仕事の質や量は圧倒的に上のZ君だが、より先輩であるD君に直接意見するよりは係長の俺にもっと強く指導してくれという主旨だ。
 ところが俺はというと、数年前の離婚から子供との別離とこれからの養育費支払いの段取り、ついでに元妻の人生の再スタートに伴ういろいろな出来事でかなり精神的に追い込まれていたD君がやっと復調してきたところであり、これに迂闊に仕事の負荷を高めて悪化させるべきでないと考えていた。
 D君は仕事より地域興し活動に生きていくと心を決めたようで、様々な団体の役員を引き受けている。それが最近のD君の活発さと共に職場でのいくつかのトラブルの源になっている。
 この件については俺も上司に相談はしてあるが、D君の落ち込み具合など別に考慮する必要はないとかなり非情な回答をもらって納得しかね、どうしたものかこの半年近く悩みの一つである。
 しかしZ君が自分の仕事に支障を来すほど悪影響を被っているならそうも言っていられない。次のミーティングでD君の努力目標を明示して様子を見ようという話に落ち着いた。
 
 この話の間、俺は徐々に具合が悪化していた。
 ビールも進まず…いや、ビールが進まない理由は他にもあった。
 いつもは生ビールをジョッキでオーダする。このとき、冷蔵庫で冷やされた中ジョッキで生ビールを供されるのだが、それが仕込まれていなかったため今夜は古びた食器棚から出されたガラスコップが用いられた。
 少し話は飛ぶが、大昔ある旅館の宴会で出された料理の食器にゴ○ブリの卵がくっついていたことがあった。
 ゴキ○リの卵を知らない人は幸せだ。俺は一人暮らししていた頃、住んでいたアパートの隣人男性が今で言う汚部屋の主で、ある年の夏にそこで大量発生したゴキブ○が溢れてアパートの他の部屋へ拡散する大惨事があった。
 真下に住んでいた若い女性はビビって引っ越していった。俺は貴重なバイト代から5,000円を大量の○キブリホイホイ購入に充てて凌いだが、大家がその隣人男性と相当モメながら清掃業者を入れて事件がようやく片付いた。残念ながら作業対象になったのは汚部屋そのものと女性が出ていって次の客を待つ真下の空き部屋だけで、他の部屋は作業対象にならなかった。
 翌月、自分の部屋に置いてあった冷蔵庫の裏で、俺は醤油かソースのような液体が飛び散って乾いたような小さな染みが大量に散らばり、乾いた茹で小豆のような異物がいくつも転がっているのを発見した。その茹で小豆を掃除の際にうっかり潰してしまい、それ以降しばらくの記憶はない。
 旅館の料理に話を戻す。俺はそれを居合わせた中居さんにそっと指摘した。その中居さんはそれが何か知らなかったようで俺に「あらあ、小豆か何かがくっついて乾いとるね」と言った。中居さんが次に何をするのかすぐに予想した俺は止めようとしたが間に合わず、気の毒な中居さんはそいつを指でボロっと引き剥がした。その場がどうなったかはお察しいただきたい。
 更に食堂のコップに話を戻すが、そのコップにはあのアパートで見たのと同じ小さな染みがいくつか付いていた。つまりそれはゴキ○リが排泄しながら徘徊した痕跡である。不幸中の幸い、全てコップの外側であった。
 ふと今いる座敷内を見渡すとそこかしこにゴ○ブリ駆除用のトラップも置かれており、恐らく長期間無人だった店内を傍若無人に荒らし回った○キブリに店主が頭を抱えたであろうことは想像に難くない。どのみち、古い飲食店が立ち並ぶこの界隈では、一軒だけが薬剤等で駆除してもすぐ元の木阿弥だろう。
 これが原因かはともかく、熱でも出たのか俺は寒気とめまいも感じ始めていた。丁度Z君は酔も少し進んだところで、彼の話を腰を折らずに聞いてやりたかったので我慢を試みた。ゴキブ○ビールで俺も酔が始まった気がするが、いつもと異なり多幸感も何も感じない。
 しばらくこんなつまらない時間が続き、興が乗らなかったのかZ君も河岸を変えようと言い出した。そこで今夜のプレオープンをお仕舞にした店主が「Z君のお気に入りの娘がいるはずだから寄っていきなさい」とあるラウンジを勧めてきた。
 つまり、あのラウンジの事である。Z君は最初からそこへ行くつもりだった様子で、店主も我々に付いて来るのでやむなく同行することにした。
 入ると先日の面々がいた。Z君が嬉しさを隠さず若い女の子達に絡んでいる中、俺の方は限界に近付いていた。頭痛と目眩が耐え難い。持ち歩いている頭痛薬を飲んだが、効くまで耐えられるか。
 「さて!係長早速いつものLUNA SEA入れるよ」とZ君が矢継ぎ早にカラオケの選曲を行う。その声は聞こえるが俺はもはや目を開けていることができない。異変に気付いたママが冷水を出してくれた。一気飲みして、お絞りに突っ伏して、そこからの記憶は曖昧になった。
 
 …いつの間にか店内が他の客で一杯になり、Z君が他の客とデュエットを始め、騒がしさで目が覚めた。ひどい寒気だが、頭痛はずいぶん軽くなった。時計を見るともう0時を回っているではないか。
 起き上がった俺を見てZ君は性懲りもなく俺に歌わせようとカラオケのリモコンを掴んだ。
 「待て待て、俺は今とても歌える状態じゃない」。声になったか怪しいものだが、あるいはずっと念仏のように繰り返していたかもしれない。そっと立ってみると何とか歩けそうだ。そのままトイレに駆け込んだ。
 ホールから彼が選曲した曲が流れてきて、お前本当に入れたのかよと頭にきた。いいか、それも金なんだ。歌わないって言ったじゃねーか。
 俺がカウンターに戻ったところでお開きになった。誰がいくら払ったのかよく覚えていない。
 店のドアを出たところでZ君がお気に入りの女の子に抱きついていたのは見た。帰ろうとして歩き出し、一度振り返るとZ君はまだ女の子の手を握り続けていた。無視して歩き続け、気が付けば俺は近くの公園に一人で佇んでいた。そこから先の記憶は失われた。
 そのまま俺はアパートに帰り着いたようで、明け方に意識を取り戻した時、俺は主PCで全く興味のない海外の外食関係のニュースサイトを眺めていた。
 
 要は美味しいお酒でなければ無理に飲んではいけないってことです。