彼の行末。

 M君の処遇が決まりそうだ。
 半年もの間、ボスを始め様々な人々が彼のコミュニケーション能力についてそれぞれのやり方で手を差し伸べた。しかし結局誰もそれが改善したと実感できなかったということだ。俺も含めて。
 恐らく学生時代を通じてまともに構築できた人間関係はなかったのだろうと容易に想像できるくらい彼の対人アプローチは奇妙でほとんど誰にも通用しなかった。同じオフィス内の人間に対してもだ。突然、自分だけが興味を持っていることやかつての自分自身に関する出来事などを語りだす。果たしてそれが自己紹介なのか、会話のきっかけの作り方を知らないだけなのかは分からない。誰に向けて話しているのかも分からない。誰もそれに応えず彼の言葉がただの背景音としてオフィス内に消えていくという場面が何度も繰り返されたし、無視という辛い対応をされると分かっているはずなのにまたそれを未だに繰り返す彼が内心どう感じているのかもまた分からない。
 しかし少しでも自分自身が興味を持った事象やイベントについては、コミュニケーション能力の欠如にも関わらず他人の輪の中に飛び込んでいく。そしてものの10分で変人扱いされ全員に距離を置かれてしまう。それが職場と全く重ならない別の集団の中での出来事ならいいが、彼は職場の親睦会でもいとも簡単に自分に繋がる人間関係を破壊していく。翌朝から直ちに仕事に差し支えるほどに…医師やコメディカルが集まっている中で突然萌えアニメゲームの絵師の話を始め「自分の嫁だ」とタブレット上の萌え絵を見せられて、宴席とは言えどれだけの人が彼の人格をまともだと考えただろうか?。
 何度か「どれだけ関心があるにしても、萌えアニメの話は明らかにヲタクだと見分けが付く相手以外にはしてはならない」と明確に伝えたが、その後も様々な人達から同じ話を聞くことになった。
 大昔からPCヲタクやアニメヲタクと言われる人種の中にはかなりの割合で彼が発するのと極めて似た雰囲気を持つ人々がいて、俺は今まで自分が見てきたそのような人々との経験からあまり違和感を感じていない方だったと思っている。ただ俺以外の人々と彼をどうやって繋ぐことができるのかまでは全く経験も知識も足りず、何の手も打てなかった。
 始めの頃は、彼が独り語りを始めたら相槌を打ちながら他の人達にも理解できるような話題に繋ぎ、居合わせている人達に声を掛けた。それでどうした、こうはしなかったのかと問い返しながら、ある意味で長としての職権・命令のような形で彼の話に部下達を巻き込んで、無理矢理にでも会話の体を成すようにと努めてみた。それは彼のヲタク趣味や普段の様子を理解してもらうことにはなったが、彼の独り語りを他人に受け入れられる会話に発展させることには効果がなかった。この小さなオフィス内の男性陣がほぼ全てサブカルに理解があったからまだ彼には救いになっていたはずだ。別のオフィスに行けば「キモい変人」と一言で捨て置かれたに違いない。
 業務面での指導は俺よりも業務経験を重ねた先輩とボスが行っていたが、これは言葉でも態度でも厳しかった。もちろん一般的には業務指導とはそうあるべきだったが、M君は定型的な業務なら他より少し回を重ねて指導することで問題なく処理できるようになるのに、不定形で任意の判断を求められる業務はいつまでたってもボスの満足を得ることができなかった。ボスは彼を「覚えた事柄とのわずかな違いで混乱する、究極のマニュアル人間」と表現していた。
 病院の事務職員の業務には少なからず患者対応が含まれるが、患者への定型文通りの説明はできるのに、患者からの質問には全く答えられない。そして答えられる先輩達に取り次ぐことすらできなかった。「分からないことがあったら必ずオフィスの誰かに相談しなさい。患者さんをあちこちの窓口にたらい回ししないように」とボスが何度も注意するが、結局は「…ここでは分からないので、次の窓口に行って聞いてください」と答えられるようになるまでが精一杯だった。
 また外部からの電話連絡を取り次ぎ漏らすことが多く、一部の相手先からは電話にM君が出たら伝言を頼まず掛け直すようにしていると明かされた。
 ボスに注意されている時に全く無関係な方向を向き、上司と会話している時はまず向き直るよう指導されるが、それも時々おざなりになった。また返事をしないことも度々あり「ハイかイイエくらい答えてほしい」とまで言われてようやく小さな声が返ってくる。
 彼が指示された業務をどこまで進めているのか、予定を大幅に過ぎてからボスが詰問すると、分からないことに躓いて未解決のまま残されていることも多かった。その都度ボスは厳しく注意したしそうされる理由も彼には理解できているはずだが、これも中々改善しなかった。最近になって少しずつ相談や報告が行われるようになってきたが、相手が多忙でとても話を聞く余裕がない様子でも構わず話しかけ、またそれが「単に誰かに相談する予定であることを報告する」など不要不急の事項であったりするので特に看護師や医師からは不評である。
 そしてどれだけ厳しい注意・叱責を受けた後でも、それで例えオフィス内の空気が凍り付いていても、誰かがふと雑談を始めてその中にM君の関心を引くキーワードがあれば直ちに笑顔でいつもの独り語りを始めるので、どこまで彼に叱責が通じているのかボスにも我々にも計りかねた。
 一方で彼がかなり高い能力を示したのは法令・規則類の記憶と理解だった。さる業務で根拠法令を調べるよう指示すると少しの時間で読解して暗記してしまう。後に他者が関連する業務上の取り扱いに悩んでいるのを見つけると直ちにその解釈を披歴して手助けしてくれる。俺も何度も助けられたが、残念なのはこの手助けが「される側」から意識して見ないと、彼が自席で無関係な独り言をしているようにしか見えなかったことだ。この点はそのうち彼が根拠法令集を手に持って示しつつ相手の席へ歩み寄るなど行動が明示的になったことである程度解決した。
 ボスや俺が最も問題視したのはこれら一連のコミュニケーション上の問題だった。人間同士の共感がほとんど見られない。共感できないため、患者や上司がどうしてほしいか想像することができない。患者がここで質問してきた理由は?、相手が怒っているのはなぜか?、怒らせる前に必要だったことは何か?。ここでどうしてほしかったのか答え合わせをすればその後全く同じ状況が発生した場合には対応できるようになるが、普通の接し方のように共感と想像を前提にしていては話を伝えられない。結果として説明・指導の効果がなく足手まといになるだけと評価され、昨年春の採用以降、半年間の試用期間を経て一旦は不採用となりかけたが、彼に関して発生する様々な問題はほぼ全てコミュニケーションに関するもので、これを中心に指導をし直すとして3月まで試用期間を延長することになった。
 素人が断定できるわけではないと分かっているが、M君はいわゆるアスペルガー症候群だろうと思われる。しかも積極奇異型と言われるタイプだ。高い記憶力による暗記中心で得た高学歴、興味を持った分野への執着。他者には表面上人懐こく接していくがあまりの奇妙さゆえに受け入れられない。なぜそのような対応をされるのか理解することができない。…
 月例の報告書の中で俺は毎回彼の問題の背景について拙い分析や疑問を記しては人事へ送っていた。発達障害による人間関係構築の困難さと、二次的に発生する可能性がある社会不安や抑うつ的な気分障害の恐れについてだ。専門的な知見と支援がなければM君が採用されるべき基準に達することは困難に見えるが、M君に対して発達障害であるか否か診断を受けるよう求める事が可能なのか?。そもそもM君は自分自身がそのような疑いを持たれる状態であることを認識しているのか?。
 3月に実施する評価で彼がこのまま不採用となるか正式採用となるか決まるのだが、ボスと俺の話し合いの中では意見のかみ合わない点があった。医学的根拠がないにしてもM君が発達障害であることは共通認識だったが、俺はコミュニケーション訓練を積み重ねつつこちら側も接し方を変えることで一定の改善が可能かもしれず、ただ期間がわずか1年では短すぎまだ不採用・解雇とするには早計ではと言う考えであり、ボスは人事から与えられた半年+半年の期間は延長できず、また与えられた評価基準では彼への接し方まで特別扱いする事を前提にしておらずあくまで健常者に対するのと同じ接し方で評価すべきであり、それで目標に達する目途が立たない場合にはむしろ早期に離職へ繋げないと彼の再就職活動の期間がなくなってしまうという考えである。
 残りわずかな期間で彼が評価を一変させる可能性は非常に少ない。ただ彼が我々と同じ職場で一年を過ごした後、できれば次の職場こそ支障なく勤められるよう、彼に何かを学んでいってほしいのだが、果たして?。