光の素足。

 「ミームいろいろ夢の旅」というアニメを観ていた記憶がある人は、ほぼ確実に俺と同年代だろう。
 分割民営化される前の電電公社、今のNTTがスポンサーだったミームは、その番組テーマや合間のコマーシャルに至るまで、電電公社が推し進める来るべき情報化社会を構築するための情報・通信技術のオンパレードだった。
 ISDN。そうISDNだ。
 企業サービスや一般家庭にまでコンピュータと周辺機器が普及し様々なオンラインサービス…当時は「ニューメディア」と呼ばれていたが…が提供されていくと予想されていた当時、その通信インフラとして音声通話とコンピュータ通信をデジタル通信に統合した規格の整備が日本の通信を一手に引き受ける電電公社の急務だった。
 そして生まれたのがISDNだったが、ミーム放映当時はまだ一般家庭で目にすることはなかった。電電公社の俊英達が予想した未来は確実に来るのだが、その時はまだ先だった。
 
 俺は中学1年の時に300bpsのアナログモデムで初めてパソコン通信の世界に転がり出た。
 加入していたMSX専用ネットワーク「LINKS」では他の高級パソコン用ネットワークでは見られない独自のサービスを提供していて、その一つに希望する利用者の顔写真を専用ページで公開できるサービスがあった。顔写真を撮影してLINKS事務局に郵送すると、デジタイズ(スキャナ経由で取り込むことを当時はこう呼称した)して256色の美麗な画像に変換してくれるのだ。もちろん無謀にも申し込んで自分の初のデジタル画像を作ってもらいプロフィールに掲載した。1980年代にネットワーク上にデジタル画像として自分の顔写真を流していた人は恐らく日本国内でも極めて限られていたと思うが、ともかくこの画像のお陰で色んな人と知り合うことができた。
 この画像の公開がちょっとした問題を引き起こした。LINKSではそれまでにも標準で、自分が作成・送信する電子メールにオリジナルの画像イメージを埋め込むことができた。元は初代MSXのVDP性能に依存して実装されていたサービスだけに表示色は8色まで、もちろんパレット機能は使えなかったが、これは実用上は有利な点で、データ量が極めて少なく、遅い通信速度でも不満ないレスポンスでサービスが使えたのだ。ところが顔写真で使用されていた256色画像のデータは後継機種MSX2用の拡張機能を使用したものでデータ量は非常に大きく、これを含んだデータ送受信に非常に時間がかかってしまうようになったのだ。
 一般家庭の電話線にアナログモデムをつないでいるから、接続中は当然のことながら電話料金が発生する。当時は夜23時過ぎから接続し始めメールを送受信しいつものページを巡回して深夜01時頃には切断して就寝する生活だったが、送受信に時間を要する分それが伸びてきてしまうのだ。時間が遅くなる分には自分も睡魔に抗しきれないので接続開始時刻を前倒しすることになる。気が付くと21時に接続するようになっていた。当然テレホーダイが無効になり、電話料金自体が信じられないほどの高額になっていった。最寄りのダイヤルアップ拠点は遠く離れた京都だったので、毎月の電話料金が3万円を下らなくなってしまった。しかもそれが両親にばれず1年以上続いた。自分でカネを稼いだこともない中学生が、何の意味があるのかも分からない(今はまた違う面で否定的な見方もあるが、ネットワーク上の交流の価値を当時の俺は両親にうまく説明できなかった)ことにこんな大金を消費し続けることは許されなかった。
 幸い、メールの交換相手に転校する前の学校の友達がいたために一定の範囲内で接続は許されたが、とても画像付き画面をいつも閲覧できる余裕はなくなってしまった。せっかく申請した顔画像を削除してもらい、味も素っ気もない文字だけのメールとプロフィール画面に戻った時の落胆たるや今でも昨日のことのように思い出せる。
 
 少し話が脱線したが、そのいつも感じていたのは「なぜ未だにISDNが使えないのだろう?」という疑問だった。
 64kbps出せる夢の高速回線ISDNがあれば、たかだか80ドット×80ドットの画像一つ一瞬で送受信できるだろう。その頃の俺はホスト側にも自分の側にも対応する設備が必要になるなんて考えが至らなかったが、一体いつになったらISDNの恩恵を受けることができるようになるのだろうか?。
 
 本当の意味で一般家庭にもISDNの名が知られるようになったのは、俺が社会人になってしばらく経った1995年以降のWindows95普及によるインターネットの爆発的な拡大からだろう。当時のコンピュータにはほぼもれなくアナログモデムが内蔵されていた。もちろん300ボーなどとケチなものではなく、遅くても28.8kbps、高級機なら36.6Kbpsの高速モデムだ。ところがアナログ回線ならではの回線に流れるノイズのせいで額面通りの通信速度が出ることなどありえなかった。下手をすると36.6Kbpsモデムでも14.4Kbpsで接続した方が通信速度が高速な場合すらあった。そのような中で、ノイズ耐性が強力で64kbpsの高速通信が可能なISDNに脚光が当てられたのだ。ISDNに切り替える人が続々と現れ、切り替え工事が終わったという話を知人から聞くたびに羨ましいと感じる俺であった(なぜかそういう人に限って切り替え工事後に自分のPCを接続する作業ができずに俺に頼んでくるのだが…)が、親の持ち物である電話回線を勝手にISDN化することはできなかったので歯がゆい思いをしながら我慢するしかなかった。
 ある意味でISDNの呪縛とも言えるISDNへの羨望が薄れたのは、もちろんADSL方式での接続サービスが始まったからだ。額面上の通信速度はISDNの64kbpsとは比べ物にならない1.5Mbps。デジタル化工事が高額なISDNと違い、ADSLは工事費が安かったし、何より料金体系が従来の従量制ではなく定額制だった。それまでの俺のダイヤルアップに要した電話料金は相変わらず月額1万円を下回らなかった。幸い、ISPが同じ県内にいくつもアクセスポイントを設置していたので市内通話扱いで済んでいたが、それでも万の単位になるのは接続時間が長くなっていたからだ。それが軽微な工事で半分で済むようになるのだから更新しないわけがない。
 そのままISDNに触れる機会はないかと思いきや、ISDNは仕事で使うことになった。職場の拠点間通信で僻地にありADSLが使用できない施設にはISDNしか選択肢がなかったからだ。
 INS64サービスでセキュアな環境を作ることができたが、その時点で64Kbpsという転送速度は明らかに遅かった。職場全域を対象にしたグループウェアサービスの利用にもISDN接続の施設では制限がかかり苦情の原因となった。例えば職場内で当たり前に文書ファイルや画像がファイルサーバで交換される中、ISDN接続の施設ではそれらを印刷して担当者が直接運んでくるという旧態依然の運用が続くことになり、どうやってISDN回線を排除していくかが仕事上の難題となった。
 NTTは既にデジタル・アナログ方式を問わずメタル線でのサービスに見切りを付けて光ファイバーによる超高速通信インフラの整備に舵をきっており、そのサービスが始まるまではCATV事業者のインターネットサービスが最高速になった。残念なことに当市でサービスを開始したCATV事業者が採用していた通信規格はDOCSIS1.1であったため、拠点間の双方向通信で重要な上り速度は未だに1Mbpsでしかなく問題の根本解決にはなりえない。結局、NTTの光サービスだけがその解決方法だったのだ。
 
 そして今日。とうとう俺の手元に俺名義の光回線がやってきた。
 300bpsから10,000,000bpsへ。
 30年前の高速回線ISDNの恩恵に俺個人が浴することはなかったが、あの当時ミームがイメージさせた夢のニューメディア社会は量的にも質的にも当時のイメージを超えた規模で拡大し続けている。単なる利用者に過ぎない俺ですら理論値100Mbps級の回線を欲する程に。
 そしてこれすら不足する時がやってくるのだろう。