食器。

 今日は妻が仕事で終日不在。
 その間にいくつか用事を言い付けられていた。
 ひとつは溜まってきた台所の食器洗いだが、俺は常日頃から食器が多過ぎる事に不満を伝えてきていた。
 食器というのはうどん・そばや丼もの、ラーメンなどに使いまわしできるどんぶりがひとつ、ご飯とお味噌汁用のお茶碗1組、おかずを乗せる大き目のいわゆる三品皿もしくはランチプレート、あとはマグカップがあれば一人分の食器に十分だと思っている。できればどれも落としても割れないプラスチックがいい。鍋は大きいのと小さいのが1つずつ、フライパンが1つ、それとヤカン。
 実家は古い家なのでほとんど使うことのない食器が山のようにあっていつも置き場所を占有していた。父親の都合で引越しを繰り返していた頃は両親とも梱包の手間を避けるためか少し自制していたように思うのだが、実家に戻って引越しの心配がなくなったためか食器は増える一方だった。
 自分が学生時代に一人暮らしを始める際、特に母親はある程度の食器を持たせてくれた。しかしながら極めて原始的な自炊を行うようになると、どれだけ料理が豪華であっても食器は3つ以上は使わないことに気が付いた。つまりご飯とお味噌汁のお茶碗、そしておかずの皿である。
 コンビニでバイトを始めると、バイト先から廃棄されるお弁当をそのままもらうようになりほとんど炊事をしなくなった(バイトがない日は近所のスーパーで惣菜を買ってご飯だけ炊く)ので、そもそも食器自体を使う頻度が減っていった。
 就職して実家に戻ってきたところで、一人暮らし当時に使っていた食器はどこへ行ったか?。実家に持って帰ってきたのは確かだが、その後ほとんど見た覚えがない。わざわざ開梱して使わなくとも実家にあった別の食器が使えたからで、ということはやはり、普段使う食器は限られてくるのだ。
 
 ところが妻はというと事あるごとにあの皿がよい、この鍋がよいと、よく分からない理由をつけて食器を買おうとする。
 丸いフライパンと四角いフライパンなら、丸いのが1つあればよいではないか。トーストを置く皿というのがあり、作った事もないのに茶碗蒸し用の茶碗がある。カレー用の皿とシチュー用の皿に何の違いがあるというのか?。しかも円形のと楕円のと3種類くらいある。
 焼き魚用の皿なんてカレー用の皿でいいのに、油断していると焼き魚専用の長方形の皿が出現する。お箸やスプーンなどいったい何セットあるのか見当も付かない。
 こいつらが狭苦しいアパートのキッチンで食器棚用に持ち込んだキャビネットを丸ごとひとつ占領しており、さらに最近は収まりきらずにキッチンのいろんなところにはみ出しているのだ。
 そして時折、悲鳴と共に食器が少しずつ減っていく。いまどきデジタルカメラですら2m落下に耐える耐衝撃性を備えているのに、陶器ときたらたかだか30cmほどの高さから落としても簡単に粉砕される脆弱性だ。人類が土器という形で陶器を作り出してからはや2万年、未だに改善される気配がない。製品寿命を短くし更新サイクルを早めにすることで製造業にとって理想的な需給バランスが維持され続けている。恐らく陶器は人類にとって最初のバリューエンジニアリングの産物だったに違いない。
 
 これを先に書いたような基本セットにまで絞り込むことで数え切れないほどのメリットが生まれる。
 まずは収納場所であり、キャビネットなど要らなくなる。アパート備え付けの食器棚すらスカスカにできる。
 次に食器洗い。最低限しかないのだから、食事のたびに洗わないと次の食事の支度ができない。つまり洗い物がたまらなくなるのだ。
 さらには無駄な調理が減る。つまり、盛り付ける先がないのだから料理の数を抑えざるを得ない。ということは摂取カロリーが減ることとなり健康によいではないか。これは副次的に購入食材の削減も誘発される。
 併せて素材をプラスチックに代えることで損耗率は劇的に下がることとなる。また恐らくは製陶産業に対してわずかながらも影響を与え、陶器の耐久性に関する大きなブレイクスルーを生み出すきっかけにも繋がる可能性すらある。
 
 何ということだ。もはや食器を減らさない理由がない。
 
 そのように考えながらコタツで横になっていた俺は、夜帰宅してキッチンがそのままになっているのを見つけた妻に頭を蹴られて目が覚めた。