精神的限界点。

 今朝、出勤する際に職場から少し離れた路上に警官が集まっているのを目撃した。
 近くにある警察署からも続々と警官が飛び出して来る。何か事件か事故があったらしい。
 その時は急いでいたしそれ以上現場を覗き見ることもなく通り過ぎた。
 
 夜、ある程度仕事が落ち着き、今日は残業するかどうか…と職場で座り込んでいると、真下のフロアにいるS君がやって来てウチのボスと世間話を始めた。
 「Hさんの件、怪我結構すごかったんでしょ?あれどうなるんすかねぇ?」
 「タダでさえ忙し過ぎるのに追い込み掛け過ぎなんじゃ…そりゃパニくっておかしくもなるわ」
 …どうも職場で怪我人が出たらしい。それも普通じゃない状況で。
 ん?もしかして今朝の警察の騒ぎって関係してる?
 「今の話って、もしかして今朝職場の近くに警官が群れてたのと関係あるんですか?」
 「大有り。○課のHが路上で腹切ったんじゃ」
 「ええーーーーーー!」
 
 Hさんは私の3年先輩になる方で、職場の中ではイケメン3指に入ると評判の人物だ。顔だけでなく仕事もできるが、態度がとっつきにくいので人物としての評価は2分されている。思い切って話してみるととても人懐っこい人で私は好感を持っていた。
 Hさんの所属部門は今年の春に10年経験のベテランが引き抜かれ、この5年程の間に進んだ人員削減で人手が実質半分に減ってしまっていた。Hさんはそんな中で新しいプロジェクトの実質責任者をまかされて、やはり私の先輩に当たるもう一人の同僚と一緒にこの一年、毎日日付が変わるまで働いていた。
 そんな多忙な折に業務監査を受けることになり、その資料作成や準備もほぼ全てHさんが負う事になった。
 Hさんは現場業務が長かったために監査は初めてで、本来なら上司や先輩から指導を受けながら準備を進めるはずのところ、人員整理と頻繁な異動で監査のノウハウを持った人が誰もおらず、ほぼ孤立無援という状況。
 それでもHさんは仕事を投げ出さず時間がある限りデスクに噛り付いていた。私も職場ではいつも帰宅が一番遅い方で午前様などは当たり前になっているが、それより遅いのがHさんだった。
 昨日もHさん達2人はひたすら準備に没頭していたのだが、そこに現れたのがD課長だ。
 本来ならD課長は長年に渡って監査の経験もあるし日中は自由な時間が多い。Hさんにアドバイスを出しつつ準備の段取りをしたりしていればいいはずなのだが、どうも今回の監査については特段の指示や打ち合わせもしないでHさんに任せたままだったらしい。
 Hさんは自分自身の説明用資料と数値合わせだけで忙殺されっぱなしだったのだが、D課長は自分用の説明用資料も余裕がないHさんに起草するよう指示した。Hさんはこの数日は帰宅せず徹夜を続けて資料の整備を進めた結果、どうにか課長用の資料を試作して課長へ査読に回したそうだ。資料の根拠となるデータは課で共有されており、課長自身を含め誰でも較正と資料の更新は可能だった。
 しかし、昨日の夕方、D課長はHさんに資料を付き返しながら怒鳴りまくった。D課長は自身が意見を述べないまま、Hさん達が想定していたのと異なる説明進行を考えていたらしい。資料がそれに沿っていない構成だったことについてHさんを課員達の眼前で声を張り上げて罵倒したのだ。
 実態としてD課長はHさんの業務を把握していたわけではない。この人物はどの課にいても現場の実情は無視して極端な理想論を述べては仕事を止めてしまうことで知られている。ヘタなボンクラ課長と違って本気を出せば大きな仕事でも難なくこなす有能さを持っており、ある面でウチのボスと相当似通っているが、妥協をしないという点でより扱いが難しい。今回も現実的な説明に重点を置いた資料が自身の想定進行では「細かすぎて使えない」事をいろいろと言葉を変えて攻撃したものの、具体的にどう改善すればよいのかは全く説明をしなかったそうだ。
 今日が監査当日だったが、結局、今朝までHさん達は資料の改定を行う羽目になった。このリミットぎりぎりでの資料差し替えのおかげで、監査で必須な一部資料の整備が間に合わなかったらしい。
 …人手不足はこの10年間の人件費削減の方針に基づくもので一課長の権限で改善できるものではないかも知れない。しかし課員の業務量がまともかどうかは把握して適切なフォローを入れなければならなかった。
 他業務の担当者をタイムスライスで補助に付けても良かったし、現実的に業務量が減らせなくとも、担当者が業務に前向きに取り組める言葉を投げるならともかく、最後の追い込みで待っていたのが理不尽な罵倒と来れば疲労の極致にあったHさんが潰れてしまっても不思議はない。
 
 この10年、人件費は大幅に減ったそうだ。それまでの業務量が過少だったかどうかは私には分からないが、少なくとも数年前からは明らかに過大になっている。特に仕事ができると期待されている人々への過度な業務の集中が進んで、毎年中堅やベテランの過労死が続いているのに…。
 
 ひとまず、Hさんの一日も早い快癒を祈るばかりだ。