久しぶりの検査。

 今年に入ってしばらくしてから、持病である大腸の慢性潰瘍が再燃して来ていることに気がついていた。
 以前通院していたのは現在の勤務先の病院ではなく比較的遠隔地の高機能病院で、定期的な内視鏡検査も中々負担が大きかったことから症状が安定し日常生活に不便を感じなくなった時点で、あまり誉められた話ではないが通院を自己中断していた。
 はっきり悪化を自覚したのは先月、発熱で仕事を休んで内科を受診した時だった。頭痛と体の節々の痛みがあり自分自身は風邪かと考えていて、Drも鎮痛剤を処方してくれた。しかしながら薄々、この発熱が潰瘍が悪化し炎症反応が出たためだとも分かっていた。その場で言えばまた検査を受けなければならないので、既往歴としては申告しておくが、しばらく静かに様子を見てみようと浅はかに考えてしまったのだ。ここ10年近くの間に一時的に状態が悪化したことがなかったわけではないが、運の良い事に数日で回復していたので、今回も同じだろうと油断していた。
 困ったことに今回は1ヶ月経っても回復する気配がなかった。いつまでもだらだらと微熱が続き、下痢と下血も止まなかった。トイレの回数が増えるのは仕方ないが、熱のお陰でただ座っているだけで疲労感が募る。職場でも家でも同じで、特に家では休日になっても身動き一つする気にならない。
 家で寝ているのは構わないが職場で体調不良は仕事に差し障る。特に席にじっとしていられず集中できないのは致命的で、そろそろ異動の内示が出る頃でもあり院内にいる間に検査だけでも受けようと思い立った。
 
 先週末に仕事中に時間休を使わせてもらい当院の外科を受診したが、診察前に外科Drから内科の消化器専門医の診察を受ける方が適切だと言われて紹介された。ところが実際に診察してくれたのは糖尿病専門医だった。このDrは発熱時に診察してくれており、俺は単に前回受診からの経過を見るために診察されたのだろうと思っていた。しかしそのまま前回処方に整腸剤を追加され、来週改めて消化器専門医の診察を受けて下さいと帰されてしまった。係に帰ってボスに報告したが、なぜ最初から消化器専門医に診察させなかったのだろうと首を傾げておられる。結局は、外科Drが紹介後に俺を内科へ案内するよう指示していた外科医事職員が、内科医事職員へ診察Drの指定を伝達していなかったためと分かった。もちろん診療費は発生している。今回は俺相手だから良かったものの、一般の患者さん相手に同じような紹介の齟齬が起きうるとすると一発でクレーム事例になってしまう…。
 改めて消化器専門医の診察を受け、内視鏡検査を実施することとなった。
 検査に備え、昨日までいわゆる低残渣食だけの半ば絶食状態で過ごしていた。若い時と違って最近は小食だが、この空腹感は何度やっても中々耐え難い。
 
 昨夜の就寝前に飲んだ下剤のせいでもう出るものなどない状態で病院に入った。受付後に医事係に顔を出して、Tさん他に一日休みをもらったことのお詫びを言っておく。
 その後は大腸内視鏡検査にお決まりの経口腸管洗浄剤の一気飲み大会だ。今日内視鏡検査を受ける患者さんは俺以外にも3人いて、それぞれ既に調製されたムーベン2Lを突きつけられて正午までに飲みきって大腸を空にしておくよう申し渡された。
 受けたことがある人なら、この経口腸管洗浄剤がどれほどまずいか知っているだろう。薄めた海水に小麦粉を混ぜて嘔吐感を演出し、わずかに片栗粉を溶かしてとろみを付けた最低の飲み物だ。昔検査を受けていた頃は確かマグコロールやニフレックだったが、味が強いガムを大量に買い込んできてその味で誤魔化しながら飲んでいた。当時の主治医がその様子を見て、居合わせた製造業者の営業に「フルーツ味でも付けられないの?」と真顔で聞いていたのを思い出す。
 今回のムーベンにはレモン風味が付いていて以前のものに比べて飛躍的に飲みやすさは改善していたが、それでも全部飲み切るのは至難の業だった。
 何より決定的な問題は、当院にはこういった場合に使える患者さん向けの控室やトイレがない、という施設面の欠点だ。俺が以前通っていた病院はとにかく施設にもカネを掛けていたのでそういう点は至れり尽くせりだったが、当院は事務局次長曰く「ウチは、そういう先進的な完全無欠の病院ではない」といつも言い訳するように、色んな点で中途半端だ。外科や内科、内視鏡室のような検査準備でサニタリー設備が必要な場所に何故か独立した設備がないので、位置的にはかなり離れた待合の共用トイレに何とか頑張って行ってもらうことになる。
 俺は内科病棟のトイレが普段から空いていることを知っているので、他の患者さんにもそう説明するよう内科に伝えてみた。ところが…洗浄が完了しているか、最後に排便内容を担当Nsが目視確認しなければならないので、病棟のような離れた場所に行かれると困る、と返された。それでは仕方ない…。
 他の患者さんには申し訳ないが、俺だけ病棟に行かせてもらいムーベンと対決してきた。2時間程で出るものはちゃんと胆汁だけになったので、勝手ながら飲み残した0.5L程は捨てさせてもらった。ここまでNsに来てもらうのは申し訳ないので出たものをIS11Tで撮影して目視確認に代えてもらったのだが、別の患者さんはムーベンの不味さにイライラしているところへ俺のズルを目の当たりにして何やらブツブツと文句を言っていた。他人に自分の排泄物を見せるというのは中々簡単にできることではない。
 
 さて、それからお昼を挟んで2時間ほどは待機となった。もちろん昼食はなし。
 午前の患者さん達が大部分はけてガラガラになった外来待合室で呼び出しを待ちながらいつの間にか眠ってしまったが、担当Nsに揺さぶられて起こされた。炎症反応を見るために採血するという。処置室で採血してもらった。前回受診でも、半年に一度の健診でも普通に受ける採血だ。
 最後のスピッツに採血が終わり、止血のゴム管を外されて処置室を出て、ソファに座ったところで妙な眩暈が始まった。
 立ちくらみだ。
 何故か目の前の部屋の中にいるNsに声をかけることは思いつかなかった。
 来ていたコートを脱いで丸めて枕にしてソファ上に横になった。嫌な生欠伸が止まらない。しばらく休んで少し収まったところで、最後にもう一度だけトイレに行こうと立ち上がった。数mは歩けたが、途中で視界が灰色の砂嵐になりかける。最も近いトイレにたどり着いたがあいにく先客が入っていた。声に出して毒づいたように思う。壁にもたれかかって、次に目を開けるとトイレの床に横たわっていた。これはよくないと立ち上がってトイレを出たところで知り合いの医師事務補助の女の子と出くわした。
 「Gungunmeteoさん、大丈夫ですか?顔に血の気がないですよ」と話しかけられたような気がした。
 「ああ、いえ貧血みたいな…」
 立っていられなくて、廊下の手すりに捕まってしゃがみこんだような気がする。
 すぐ後に近くの外来から出てきた院長に「何?貧血かい?」と尋ねられ、何か答えた気もしないでもない。
 …。
 
 誰かに抱えられたような気がして目を開けると、ストレッチャーから処置室の点滴台に移されたところだった。
 「あ、気が付いたみたい」と担当Nsが言った。周りを見ると内科外来のNs一同に、外来師長に院長まで揃っている。
 「血圧が上80でーす、発汗強いです」
 しまった。やはり意識を無くして倒れたのだ。
 「…すいません、お騒がせして」
 視界は暗いが、声は出た。
 「何あったのかと思った。彼今日なんか検査なの?とりあえず輸液しといて、1本でいいから」
 「内科でCFなんですけど…注射オーダは院長の指示ってことでいいですか?」
 「あなた多分脱水起こして血圧下がり過ぎたんだと思うわ。点滴するからこのまま休んでて」
 …エラい騒ぎにしてしまった。
 経口腸管洗浄剤は腸管からの水分吸収を止めることで内容物を垂れ流しにさせる仕組みのものだ。だから飲み始める前に予め水分を取っておけばよかったのだが、今回は久しぶりだったのでうっかり忘れていたのだった。直前の採血も、もしかしたらわずかに影響したのかも知れないが。
 「予定通り検査はできるとは思うけど、一旦Drに指示仰ぐからね」
 「すいません、休んでるつもりだったんですが、トイレに行こうかと思いまして」
 「あー、まだトイレに行きたい?」
 「え、まぁ、できれば」
 俺以外の全員が首を横に振った。
 「今まだ血圧戻ってないし、行かせられないわ。我慢できなければオムツ着けるけど」
 何だって?。
 「あ、そうですね着けましょうか?」
 「いやいやいや、我慢できます。できますから」
 「まぁ、血圧下がり過ぎた時は便意がするものだから少し待てば落ち着くと思うけどね」
 「着けた方がいいと思うけど。着けましょうよ」
 「いや、ホントに大丈夫ですから」
 これはまずい。70・80代の高齢になったならともかく、さすがにまだそういうお世話になる心の準備はできていない。
 「一番高齢の私が着けるから安心しなさい」
 外来師長がニヤニヤ笑いながら言った。心中お察しいただきありがたいですが、お気持ちだけで結構です。
 「わ、分かりました。10分待って頂いて、それで我慢できなければお願いすることにして」
 必死の懇願である。
 幸い、10分待たずに便意はなくなった。最も恐ろしい瞬間であった。
 
 内視鏡検査自体はDrの腕が良かったせいかほとんど苦しさや痛みがなくスムーズに終わった。
 残念ながら炎症部位に再燃があり、当面は投薬治療を続けることになる。
 これまでかなり長期間は食事の制限もせずに生活してきていたので、また寛解するまでは不自由な生活を送ることになりそうだ。