事件現場。

 1月6日の20時頃。
 一人で残業しているところへ、他課の後輩が備品を借りに来た。手続きなど勝手知ったるもので彼が用を済ませ立ち去ろうとした時、その声は聞こえてきた。
 
 『やめてくださぁぁぁあああああい』
 
 窓の外からだった。
 俺がぎょっとして顔を上げたが、後輩はというと別に気にした風でもない。
 この職場のビルは、この過疎地の中でも最も大きな歓楽街の隣の区画に建っている。職場の駐車場は、夜20時を過ぎれば一杯ひっかけに集まる客達の車で埋まってしまい、どうせなら酔い客向けのコインパーキングとして夜間開放すればどうかと冗談も交わされるほど。大きなイベント当日の夜などは、酩酊してトイレを求めてビル内に迷い込んでくる酔い客の相手も宿直員の大切な仕事だったりする。
 今日は地元消防団出初式が開かれていたこともあり、その打ち上げと称して多くの消防団関係者が街に繰り出し普段以上の賑わいを見せているはずだ。
 だからそんな客が前後不覚となって騒いでいてもそれほど珍しい事ではない。
 前後不覚になるほど盃が進む時刻にしては、やや早いような気もするが。
 俺と目が合った後輩も、自分も呑みに行きたそうな表情で肩をすくめて部屋を出て行こうとしていた。
 ところが…。
 
 『やめてくださぁあああああああああああああい』
 
 声は、一度どころか止むことなく繰り返し聞こえて来た。雪が降り積もって静まり返った周囲にどこまでも響いていきそうな無遠慮で奇妙な大声。例えるなら、コーラスや劇団員が舞台の上で発するような、何を言っているのか観客にも聞き取れるよう大音量で発するセリフだった。
 若いと言い切るには少し野太いが、それにしては年相応の力強さが全く感じられない、ぼんやりした男の声だった。
 
 『やぁめぇてぇくださぁあああああああああああああい』
 
 何度も何度も何度も彼は繰り返す。
 酔い客同士のトラブルか、はたまた酔い客に誰かが絡まれて助けを求めているのだろうか?
 それにしては、危険を感じさせるような必死さがない。
 
 重いアルミサッシを開けてベランダへ出ようとしながら、俺はこれをどこかで聞いたような声だと感じ、そしてすぐに思い出した。以前勤務していた病院で騒ぎを起こした患者の声だ。
 その人はテレビゲームに熱中するあまり中学校を何日もサボり、そのことで学校中から注目されるようになったことがきっかけで本当に通学できなくなりそれから20年以上学校へ行ったことも就業したこともなかった。知的障害はなく、待合室に置かれた職員から寄付された雑誌の工学に関する記事について主治医と対等に意見を交わす一面もあった。
 ある日、その人が病院の備品を戯れで使ってとても便利に感じたらしく、自分は患者なのだからこれを無償で譲ってもらえるはずだとゴネだしたのだ。
 その時応対していた看護師長が何度も優しく言い聞かせるがほとんど話が通じず、自分の要求が通らないことにいら立った彼はその備品にしがみついたまま、院内中に聞こえる大きな声で叫び出した。
 『くださぁああああい!これくぅだぁさああぁぁぁああああい!くううだああさああああいいよおおおおお!』
 間延びしてまるで歌うような、まるで悪びれるふうもない三十路の男の声だった。人と接した経験が乏しいための未熟な交渉術だったのか、あるいはこうして騒ぎにしてやれば相手は折れるに決まっている、そういう意図だったのか。社会と接点を持たず歳相応の自分自身の在り様を理解できなくなった人間がどうなるのか目の当たりにして、ひどく悲しくなった。
 
 …ベランダに飛び出して暗い地上を見下ろすと、歓楽街のはずれにある一軒の民家の前にパトカーと小型のワンボックス車が並んで路上に停車しているのが見えた。こちらのビルからは通りを挟んで向こう側の至近距離だ。
 数人の警官がそのパトカーへ押し付けるようにして一人の男を制圧している最中で、奇怪な叫び声は彼が発するものだった。警察に不当拘束されていると周囲にアピールしたかったのだろう。残念ながら周囲には通行人はいなかった。
 ワンボックス車の持ち主と思しき白いジャケットを着た女性がその民家の玄関とワンボックス車の間を所在なげにうろうろしている。
 警官達は特に彼を黙らせようとする様子はなく、数十回ほど彼に叫ばせて彼が疲れたのが諦めたのか大人しくなった後、こっちに来て事情を説明しろというように彼を抑えたまま民家の裏手に入って行った。
 男は見たところ30代。この民家の裏手は飲食店が並ぶ小路が続く。やはり飲み屋で泥酔してこの民家の周りでトラブルを起こし警察を呼ばれ、連絡を受けた身内の女性が迎えに来たというように見えなくもなかった。
 パトカーは赤色灯も付けておらず、そのまま騒ぎは沈静化したように見えたので自分も中へ引っ込んだ。
 その夜は24時少し前に仕事を切り上げて帰宅した。

 翌日の朝、サーバ室で作業をしていると昨日の後輩がやってきた。
 『今朝の新聞見ましたか?昨日の騒ぎ…』
 「いや、新聞取ってないしテレビもないし。何だったの?」
 『あれ殺人だったんですよ』
 「ええええええええええええええええ」
 課室に戻って業務用に取り寄せている新聞を見ると確かに記事がある。25歳の男が自宅で母親を殺害したそうだ。その自宅こそ、あのパトカーがいた民家だった。
 では、あの声が、母親を殺した男の声か…。