人の特性。

 毎日、同僚や先輩から掛けられる言葉がほぼ全て罵倒であったりため息であったり、またその働きに誰も期待してくれないという状況で働くというのはどういう気持ちだろうか。
 
 私は仕事でよく映像のライブストリーミングを行うのだが、そのソースを二次利用してテレビ中継を行う番組制作会社と付き合いがある。その制作会社の制作部で、今年の初めに本社から転属してきた20代後半のAD氏がいる。
 それまでその制作部は女性スタッフが2人だけで、お互いに撮影やキャスターを兼ねながら営業してきたのだが、配信先が増えてきた事で技術的なハードルが上がり作業量が増大したため本社に応援を要求し、それに応えて送られてきた2人の男性技術者のうちの一人が彼だった。彼の名刺にこそアシスタントディレクターとあったが人手不足でひとつの撮影・編集作業は一人でこなさなければならない。
 初対面で挨拶したAD氏は私の目には大変な好印象だった。とても腰が低く、決して笑顔を絶やさない温和な人物に見えた。
 初めこそスタジオの先輩達に大変な期待を持って注目されていたAD氏だったが、私がしばらく顔を出さない間にその期待はひどい落胆に変わってしまっていた。
 ある日久しぶりに収録を依頼してスタジオに行ってみると、他の3人のAD氏への態度があまりにもひどく閉口した。
 A女史はAD氏に何を指示するにも全く彼を信用しておらず、カメラのセットアップひとつ見ても使用するケーブルのオスメスすらも彼任せにできない様子だった。またB女史は自分の仕事へAD氏を立ち入らせず、AD氏が作業を手伝おうとしようものなら激しい言葉で拒絶してしまう。AD氏と同時期に配属されたスタジオリーダーのC氏はまだ穏便な態度ではあったが、それでもAD氏を対等なスタッフとは見なしていない風がありありと見て取れる。
 AD氏は本社のスタジオで5年ほどもADを経験した人物と聞いていた。つまり下手をすればこの新しいスタジオの設立と同時に採用されたA女史・B女史よりもキャリアが長いと言える。それが一体どうしたことなのか。
 私は打ち合わせや連絡伝達で顔を合わせる程度でなかなか一緒に仕事をする機会がなかったのだが、先日この制作部全員と一緒に作業してこの状況の理由を目にすることになった。
 実はAD氏はとにかく物覚えが悪く、また自発的・計画的な業務がほとんどできないのだった。カメラ操作や録音といった基本的な作業の知識はあるのだが、それら別個の作業を結びつけて一連の撮影を完結することができない。
 彼ができない作業というのは他人から見ると本当に些細な事ばかりだ。例えばこの時、私が操作するアンプと制作部のミキサを接続するためのケーブルにオスメス変換アダプタが必要になった。普通ならその接続部分を見て、入力側は標準プラグのオス、出力側はキャノンコネクタのメスなのだから標準プラグのメスとキャノンコネクタのオスで構成されたアダプタを用意すればよい。しかし彼は必要なアダプタの判定ができず、よく似たアダプタらしき部品の入った保管ケースを丸ごと持ってきてしまう。場合によってはアダプタですらない備品の保管ケースを抱えて走ってくることもある。
 あれも違います、これも違いますとダメ出しをしているうちに備品室の中の保管ケースがほとんど全部スタジオにぶちまけられることになった。撮影の邪魔になるので片付けるよう指示されると、今度はそれらの備品を全て混ぜてでたらめに保管ケースに戻し始める。部外者の私が口出しをすれば後でAD氏が他の3人に何を言われるか恐ろしかったが、見るに見かねてそれとなく整理しながら片付けようと申し出たが、狭いスタジオのこととてやはりA女史に聞きとがめられ「ADさん!私たちの仕事ぶり全部の評価に繋がるんだからしっかりしてよ!」と叱られてしまった。
 他にも、私達側のビル内で移動機材を展開して中継を行った際も決まりきった機材のセットアップが一人でできずに指示待ちになったり、ある作業の途中で別の作業が割り込んだりすると、先の作業は誰かに警告されるまで完全に忘却されてしまう、またリーダーC氏のマイク調整のアシストがきちんとできない(別室のモニタ越しに音が拾えても拾えなくても「OK」コールを連発してしまう)など、部外者から見ても経験者にしてはあまりの失態続きにB女史が金切り声を上げているのも止むなしと思える有様だった。
 だが、一緒に働くAD氏の態度そのものは常に真剣でふざけたり手を抜いている様子は決してない。部外者の私に対しても機材や放送に関する厄介な相談事や質問を無碍にせず、仮にその場で答えを持ち合わせずとも一緒になって考えてくれる。リーダーC氏は素人に対してやや冷淡な面があるので、AD氏の態度そのものには好感すら感じるのだ。
 先の変換アダプタの件に際しても、重いケースをいくつも何度も運ぶ作業自体を厭う様子は全くなかったし、まるでアルバイト同然に扱うA女史の指示にも不満を顔に出したりすることなく、彼女らの指示自体には機敏に手足を動かし、疲れるそぶりも見せずに走り回っている。ただ、何度同じ作業を教えられても翌日にはほとんど忘れてしまい、結果がついてこない、それだけなのだ。
 数日後、A女史とB女史が揃って我がボスのところへやってきて、AD氏の仕事振りについての愚痴をこぼしていった。実は我がボスはこの番組制作会社が立ち上がるきっかけを作った人物で、業務の上でも私人としても、会社の取材活動にさまざまな協力を惜しまない。仮にそうだとしても、結局は部外者である我がボスに自社内の人間関係を相談しに来るという発想はどうかと思うのだが…。
 彼女ら曰く、AD氏がボヤを出しかけたのだそうだ。スタジオ脇の編集室で一人でAD氏が編集作業をしていると、彼の目線の先にあった付きっぱなしの撮影照明の電球がひとつ消えてしまった。しばらくするとそれが煙を吹き始め、火災報知器が鳴り近くにいたスタッフがスタジオに飛んできたが、編集室の中にいるAD氏だけは何が起きているのか気づきもせずに編集ジョグを回していたらしい。
 この事件の翌日に、彼のあまりの使えなさに全員が業を煮やし、一体どうしてそんなことになるのか、どうすればAD氏の仕事にミスがなくなるのか、彼を囲んでミーティングと言う名の糾弾会をやったのだそうだ。凄まじい罵詈雑言の嵐になった事は想像に難くなかったが、彼の物覚えの悪さ、要領の悪さに話題が及んだ時、AD氏自身が「全て紙に書き出しておいてもらえれば失敗はありません」と言った。その夜B女史が試みに、ほぼ徹夜で翌日の作業工程と使用機材、そのセットアップ手順と運用中の注意事項を事細かに図示しながら書き出したところ、翌日の作業では確かに今まで同様のミスは格段に減ったという。しかしB女史は彼に仕事は頼まないと決心した。
 あるいは、AD氏はLDかアスペルガーなのかもしれない。ほんの数日前の機材設定を覚えられなかったり、皆が彼自身が巻き起こすトラブルで殺気立っている中でも笑顔を振りまいていたり、A女史・B女史のもはや指導と言えない罵倒を聞いても顔色を変えずに指示に従って見せるなど、やや健常者では考えにくい行動に思えるのだ。むしろ彼の腰の低い態度と笑顔は、彼が社会での生き難さを克服するために身につけた適応のひとつなのではなかったのか。
 昨日、AD氏がスタジオから外され、営業部の内勤に替わるらしいと聞いた。
 彼が新しい環境で、今度こそ彼の適正と業務が一致した働きができることを祈りたい。