洪水伝説再び。

 この数ヶ月の間、ひたすらシステム障害とPCクラッシュと配線工事に対応する日々でデスクワークが大量に溜まっていたため、今日こそは絶対に作業はしないと決めてサーバ室に立てこもっていた。運悪く今日は課長以下大部分の人間が会議や出張で不在だったため電話番をさせられそうになったが、声を掛けられるより先にサーバ室に逃げ込む事に成功した。
 サーバ室は、窓際に設置してあった水循環式のファンコイルユニットが点検のためつい先日から撤去されていて普段より明るく、仕事がしやすかった。
 そのせいか仕事が調子のったので食事もとらず延々と書類仕事と伝票整理に没頭していた13:30頃。
 膨大な数の冷却ファンの騒音でほとんど室外の音など聞こえないはずの私の耳に、まるでシャワーを被るような水音が聞こえたような気がした。
 反射的に振り返って、先日エアコンからの漏水があった部屋の奥を見やったが何も起きていない。
 気のせいだろう。少し神経質になり過ぎだ。あのエアコンは既に修理されていて問題ない。
 座りっぱなしで背中が痛い。無意識に室内を点検しようとしたのだろうか、私は立ち上がってあの洪水事件の現場まで行き、やはり何も起きていない事を確かめてから踵を返した。
 休憩のためコーヒーを一杯注ごうとしてサーバ室を出ようとして顔を上げると、そこには極度に興奮してあわあわしている給与担当のI氏がいた。
 彼越しに廊下を見ると、我が総務課から今日留守預かりをしていた若手が次々と飛び出してくるではないか。
 「Iクン、何?」私は目の前に立ったままのI氏に尋ねた。その時のI氏は必死に何かを探している様子で私の問いなど無視したい表情がありありとしていたが、さりとてどこに行けば求めるものが手に入るのかよく分からない風で、逆にそれを私に問い掛けてきた。
 『…ほ、ホウキ…いえ、何ていうんでしょう?かく奴!ほら!かく奴!』
 何を言っているんだ君は。
 「かく奴って何?ていうか、何?」彼から見ると私も相当呆けているように見えただろう。
 「…何なの?」再び問い直した私の耳には、どうやら幻聴でも気のせいでもない水の音が確かに聞こえていたのだ。
 
 『 洪 水 な ん で す よ ! ! 』
 
 「 は ぁ ? 」
 
 I氏は今度こそ意味の通じる言葉を発して、走り去っていった。
 彼の言葉に何かを返さなくてはならないと私の脳が必死に語彙を検索しその結果を口に出したものの、使ったブドウ糖の量に見合うだけ相手に間抜けさは伝わっただろう。
 次に私は廊下を渡って総務課に飛び込んだ。課長席に近い入り口に踏み込んだ私の目の前には、窓際に出現した全く場違いな水柱と、それを斃そうと水柱の根元の床にしがみ付くA氏の姿があった。背後で先任士官F氏がコンビニ袋をつかんだひょろ長い手を振り回している。
 膨大な水はこの部屋の1/4を既に水溜りに変えつつあり、なおまだ広がろうとしている。
 「何じゃぁ、こりゃぁ」
 素っ頓狂な、しかしお約束とも言える声を一応挙げてみた私だったが、もちろん座視するわけにはいかず、水溜りをどうにかするための道具を探しに部屋を出るのだった。そしてそこに至り、最初に出会ったI氏が脳内で何を欲していたか理解したのだ。素晴らしい事に私の脳はそれを的確に表す語彙を知っていた。
 「ワイパー!ワイパーはどこだァアアアアアッ!」
 掃除具置き場からワイパーを掴んで走り戻った私は、そんな事後処理用具など後回しでまず水を止めんとするA氏を手伝おうと思った。思っただけで妙案など思いつかなかったが。A氏は水源である撤去されたファンコイルユニットの送水管の断面を素手で押さえ、水圧に抗しながら栓の代わりになるものを要求していたので、そこでF氏がコンビニ袋を何に使おうとしていたのかを察した。送水管をコンビニ袋で縛り上げたら水の噴出を止められるのではないかと思ったに違いない。
 清純派S女史が水溜りに投げ込んだ大量の雑巾が目に入ったので、雑巾をとりあえず配管に詰めればどうかと提案してみた。A氏からは賛同を得たものの手を離した瞬間にさらに高圧となった水柱が吹き上がりそれどころではなくなってしまった。
 我々はとにかく広がる水溜りを押し留めつつも、水の奔流を止める術を知らず自体は悪化する一方だった。まさに、そこはホーカーハリケーンの襲撃を受けて船殻に穿孔浸水し阿鼻叫喚のUボート艦内だったのだ。
 私は、この大惨事がサーバ室で起きなかったことを無上の幸運と感じながら、この3階から2階へ降りた。原因は間違いなく2階にあるからだ。耐震工事のため壁や天井が剥がされた2階では、このファンコイルユニット用の配管の点検作業も併せて行われているはずだ。
 関係者以外立ち入り禁止のドアを開けて2階フロアに一歩踏み込むと、前が霞んで見えるほどの粉塵が漂ってむせ返った。
 防塵マスクで完全武装した作業員の一団をかき分けて、あの水柱のちょうど真下になる部分へ辿り着いた。全ての配線と配管が露出したその天井からは、上の水柱に負けないほどの滝が流れ始めていた。
 誰が配管工事の担当なのか知る由もなかったが、とにかく近くで目に付いた現場監督らしき人物に漏水の状態を伝えた。作業をしていた人たちは壁をはつる騒音で漏水に全く気付いていなかったようだ。
 作業中の配管業者を呼んでくれるとのことで、私は3階に戻って作業を手伝う事にした。部屋に戻ってみると水柱はA氏が相変わらず配管断面を手で押さえて止めている状態だった。私はLAN工事用の工具を持って掛けより、配管の脇に突き出たバルブらしき突起物をペンチで閉めようと試みた。それは全閉にはできなかったものの水流を半分程度に抑える事に成功した。

 そこへ今回の自体を引き起こした張本人である配管業者がやってきて、金属栓で配管断面を塞いでくれた。課長席周辺は書類もろとも水浸しになっており、とりあえず今度こそ事後処理のために、居合わせた全員でワイパーやちりとりを使って水をかき出し始めた。整理途中の書類を収めたケースが水を吸って重い。
 集めた水はバケツに3〜4杯になっただろうか。残りは床の弱電配管を通って階下に流出してしまったためか、およそ30分ほどで水溜りは姿を消した。