洪水伝説。

 とある古参のサーバからデータを取りたくて、元先任士官D君にご足労願いレクチャーを受け始めたのは5時頃だった。
 しばらくはサーバ室の隣にある処理室で話し込んでいたのだが、ふとした不明点を調べようと2人でWEBに出てgoogle詣でしたのはそれからまた1時間ほど過ぎた頃だったろうか。
 突然、処理室のネットワークが応答しなくなった。我々の足元に雑多に転がっているHUBを間違って蹴飛ばしたのだろうか、そう思い電源を入れ直したが改善しない。処理室を出て自分のデスクに戻り、普段使っている端末を開いたがやはりネットワークに接続できない。じきに建物全体がネットワーク障害を起こしている事が分かった。
 これだけ影響範囲が大きい場合は、原因は外部と結線しているサーバ室の接続装置周りの異常だ。実際にこの夏、類似した障害を起こした機材があった。
 サーバ室の最深部、光メディアコンバータに踏み込んだ我々2人が見たものとは…。
「……み、水漏れだーーーーーーー!」
 D君が素っ頓狂な叫びを上げた。何と、ネットワーク装置のラックに、真上にある古いエアコンから漏れ出した大量の水が降り注いでいた。
 ネットワークサーバや外部施設ごとのルータ多数、ファイアウォールや代替の利かない高性能HUB…想像を絶する高価な機材が、かび臭い水の流れに浸っている。機材の下敷きになっていたUPSからは「バチバチ」と不穏極まりない凶音までしてくるではないか。
 D君がバケツと雑巾を抱えて戻って来たので、二人でサーバラック群の狭い隙間に身体を突っ込みながら必死に水をかき出し始める。既に機材の幾つかは応答しなくなっていて、基盤のショートでトドメを刺しかねなかったしUPSの発火が怖いので電源を全て切る。足元を見れば、無造作に転がっているサーバ用電源ケーブルがいくつも水溜りに沈んでしまっている。
 D君が感電の恐怖に震えながらモップで水溜りを拭き取りにかかったので、私の方は元凶であるところのエアコンの水漏れを止めにかかった。天井にぶら下がる形で取り付けられた15年ものというこの古い業務用エアコンのボトムカバーの四方の隙間から、スプリンクラーが壊れたのではないかと思うくらい大量の水がこぼれ続けている。背面から室外機へ伸びる排水ダクトが目詰まりしたのだろうと思って揺さぶって見たが何も反応はない。ボトムカバーの細い隙間に手を突っ込んでカバー自体を引き剥がそうとしたところ、大きく広がった破口から一気にホコリが溶け込んだ汚水がどっと流れ出してきた。
 私の腕を伝って流れる汚水を見てあまりの惨状に目がくらんだが、そのお陰で漏水自体はほとんど止まってしまった。カバーの周囲から再び漏れ出すよりはと、引き剥がしかけた破口をそのままにして真下にバケツを置いた。
 D君に手伝ってもらい一時間ほど作業した結果、漏水のほとんどは始末できた。残りもサーバ室自身が発する熱で少しずつ蒸発していく。
 浸水してしまった機材の状況を確認していくと、幸いにして光メディアコンバータを初めとするネットワーク機材のほとんどは無事に再起動できた。ゲートウェイサーバが正常起動しなくなってしまったが、M/Bを取り出して乾燥させてから試すとBIOS設定が失われただけで起動に成功した。問題はUPSで、通電するとブゥーンと危険なノイズが聞こえてくるため運用を断念。別サーバ用の電源を引き回して代替とする。
 これ以上被害が拡大しなくなったところでようやく周りを見渡す余裕ができたが、漏水点から半径1m以内のわずかな面積に最重要の業務基幹サーバラックが集中していた事に気が付き余裕など吹き飛んだ。もしどれかが死亡すれば始末書などでは済まなかったからだ。
 問題のエアコンは止めていたが、温度計を見ると既に室温が45℃を超えるところになっていた。もう少しすればサーバ環境異常としてシステムベンダーに一斉に自動通報が走る事になる。通常はセキュリティ確保のため施錠している窓やドアを全て開け放って外気を通そうとしたが焼け石に水だったので、止む無くエアコンを始動。排水ダクトを追って行くと、壁を抜けてすぐのベランダが、今しがたぶちまけたような膨大な量のゲル状の何かに埋め尽くされていた。どうやら排水ダクトがこの汚物で詰まったことがこの漏水の直接の原因のようだ。
 そこで私の脳裏に、かつてこのサーバ室の主を長く務めた大先輩の言葉が甦ってきた。
 …はるか昔、唯一この独立エアコンがあるサーバ室を喫煙室や休憩室代わりに使っていた人々の不遜な態度に神はたいそうお怒りになり、このエアコンをして周辺に大洪水を起こし、さらにはカビとコケでできた怪物を遣わして愚かな人々を追放し、地上を清められた。生きのこった人々はカビとコケの怪物をようやく倒したのち、サーバ室を禁断の地として関係者以外立ち入り禁止にし、エアコンにはフィルタをこまめに掃除しつつ日々神の怒りが静まるよう祈ったという…。
 偉大なる先人の教訓を忘れ日々の勤めを怠った私へのこれは神の怒りであったか。自らの行いに恐怖した私は大先輩に電話をし懺悔をした。大先輩は憐れな羊に向かいこう述べられた。
 「あーあー、そろそろかと思ってたけどwww新しいエアコンにすれば良かったのにぃ。まー汚泥の写真撮っといて資料につければ予算貰いやすいかもよwww」