温泉に。

 よく聞く言葉ではあるが、正直なところ「裸の付き合い」なんて、銭湯を使う環境ではない俺にとってそれほど多くない。親睦旅行で泊まった温泉旅館でとか、友人と車で小旅行した際に現地の健康ランドでとか、その程度だった。

 

 ウチの係の選任士官D君は、困ったことに自身の身だしなみについてもはや世捨て人同然である。

 率直に言って、汚くて、臭い。

 隣の席は一回りも年下の独身女性で、二人の共有の電話機などは彼女が毎朝彼の目の前でこれでもかと言わんばかりに消毒用エタノールで拭き上げるし、真向かいに座るZ君はD君とデスクとの間にトイレ用消臭剤をドンと置いている。

 別の部門からも、部門長から直接俺のところに「どうにかしろ」と苦情が来るが、本人に指導しても「まぁ、俺は今セルフネグレクト中で…」等と答えて大きな改善が見られない。

 彼の家庭では色々とトラブルが続き、何ヵ月も過ぎた今でもその心の傷は医療に頼っても中々癒えたとは言いがたい様子がかいまみえる。

 とは言え放置することも許されず、体臭にたいしては制汗スプレー、洗われないシャツやスーツにはリセッシュ等をプレゼントして、出勤前にでも使うよう促した。お陰でその後しばらくは改善したように思われたが、日が経つとまた元に戻ってしまうのだった。

 先日、特に臭気が強く感じられる一日が終わるころ、Z君から「もしかして、風呂入ってないんじゃない?」と恐ろしい可能性が提起された。

 まさかねぇ。

 どちらかと言えばセルフネグレクトは大好きな俺である。入浴が面倒だと言う意見には大手を振って賛同するが、実際のところ入浴かシャワーは毎日欠かさない。これはアパートも実家も電気温水器があるので、温水タンクが空になるまではいつでも好きなときに簡単に使えるのが大きい。

 俺の実家はかつて薪によるボイラーしかなかったので、その頃は入浴準備がとても大変だった。

 旧家であるD君の家もひょっとして薪ボイラーなのか本人に尋ねたが、かなり前に電化したと言う。

 その日の帰路、Z君とその事で話ながら歩いていると、「とりあえず風呂連れていこうか」と提案された。

 ああ、いいですねぇ。

 そして今日、その提案は実行に移された。

 金曜の夜、Hさんには残業を命じておきながら残りの3人は定時退社で出掛けようというのだからひどい話だ。念のため書いておくとHさんには事前に事情を説明して納得してもらっている。

 俺のブリットにD君を乗せるのには中々の覚悟が必要だったが、直前になってD君が自分の車で移動したいと申し出てきたので、Z君だけを乗せて市内の温泉施設へ向かった。

 先発したはずのD君がまだ到着していない。まさか逃げたのか…。フロントに3人分の入浴料を先払いし、D君がやってきたら通してもらうよう依頼して先に浴場に入った。

 営業の終了時間に近いせいで他に入浴客は数えるほどしか見当たらない。まるで貸し切りのようなものだ。

 Z君と湯に浸かってしばらくするとD君が現れた。スーツをクリーニング店に預けに行って遅れたという。よかった。スーツの汚れ具合も中々で、ボスに毎日洗濯するよう催促されていたから、聞いた我々二人も安心だ。

 

 湯船の中でHさんの今夜の仕事について色々と話すことがあった。今年の夏までZ君が担当していたが、引き継ぎできる人材がやって来たということで我々は喜んで担当替えを行った。

 去年のT君は、Z君からの引き継ぎの途中で「僕には出来ません」とハングアップしてしまった。それに比べてHさんは文句も言うし先輩たちに向かって生意気な発言は目立つが仕事はできる人だ。むしろ予定している以上に仕事を任せてもこなせるだろう。

 

 湯温は普通で、雪のちらつく今夜でも湯上がりに寒さを感じることはなさそうだが、ガラス窓越しに見える外の露天風呂へ行く気にはなれない…と思ったのは俺だけだった。D君とZ君が連れだって露天風呂へ向かい、俺はしばらく湯船で休んで、彼らより先に上がった。

 

 全員が湯から出てきてから、館内のレストランで夕食となった。タニタと提携しているいわゆる「タニタ食堂」で、栄養管理されたお弁当の配達サービスを行っている話は聞いていたが、俺が実際に来たのは初めてだ。もっと言えば、この施設に来たこと自体が初めてだった。

 他に客はいない様子だった。入口に食券販売機がある。Z君もD君も来るのは初めてらしく、販売機のメニューを3人で珍し気に眺めることとなった。

 そんなに食欲を満たすようなメニューがない。カレー、少しの丼もの。どうやら「栄養学的に正しい」調理がされたものが揃えてあるらしい。ドリンクはビール、そして「乾きもの」と表記されたおつまみと枝豆。

 半分は俺が出すことにして、2人には好きなものを注文してもらった。俺とD君はカレー、Z君はビール、彼に合わせておつまみをいくつか。

 しばらく待って出されたおつまみは、その辺のスナックで出される物と変わらなかった。何というか、確かに健康に配慮されていて変な食材の物はない。ピーナツとチーズおかきと小さいチョコレートなど。

 しかし、カレーは食べ応えがあった。正直に言うと、調剤薬局のレジ周りに並べられているような減塩、脂肪カットのレトルトカレーが出てくるだろうと決めつけていたのだ。ところがどうだ。レトルトどころかきちんと煮込まれていて、レトルトにありがちな胸焼けがする油感がないちゃんとしたカレーだ。

 さすがはタニタ

 感動すら覚えながらスプーンを動かす俺とD君。

 「こんなにおいしいなんて、カロリーフリーなカレーだなんて信じられないですよ」

 やってきたスタッフの女性にそう声を掛けると、彼女はにっこり笑って答えた。

 「ごめんなさい、それ普通のカレーです」

 ですよねぇ…。ていうかそこまで徹底してほしかった…。

 

 さて、D君の身だしなみ改善は続くのか。果たして。