敵意の累積。

 ウチのHさんは負けず嫌いで攻撃的だ。
 3次元上の人物で例えれば一昔前の沢尻エリカ、2次元上なら「げんしけん」の荻上に近い。
 自分の非を認めない。自分の置かれた状況の原因を全て他者に求める。
 他者への譲歩は行わない。
 他者の認識における類型は敵か味方の2つだけ。
 他者について語らせれば、誰に関してであっても容赦ないdisrespectで、最早一芸と言っても過言ではない。
 一方で相手によってはその牙と爪を隠すくらいの器用さを持ち合わせている。
 頭は切れるし課題の理解度も高い。仕事についてはある程度安心して任せられるのに、その性格のため周囲からの評価は二分される。
 
 今日、外部からある調査依頼が届いた。軽微なものとは言わないが、ほぼ毎日舞い込むようなものだ。
 俺はいつものように内容を一読して上司に受領確認を求めた後、担当であるHさんに回答書作成を指示した。
 今回はいつもより調査範囲が広く、半分は別係の担当分野に関する内容だった。依頼元もそれを理解してか、回答書面は分野ごとに別葉に分けられていた。
 俺から依頼書を受け取ったHさんは、担当としての判断で別係の同僚に該当の回答書の記載を依頼した。
 
 午後、Hさんから彼女自身が記載した範囲の回答に合議を求められた俺は、Hさんを待たせて自分のデスクで内容を読んだ。回答内容には特に記載に注意を要する事項が含まれており、記載にあたりHさんから相談されていたD君も加わって3人で文言を確認していた。
 その時、調査書の残り半分の記載を依頼されていたO君がやってきて、依頼主であるHさんと何事かを話して間もなく、非常に立腹した様子で立ち去った。
 俺には自席のディスプレイ越しだったため話の内容は聞き取れなかったが、Hさんは何でも無いという様子でこちらに向き直って元の話を続ける。
 「今の何?O君ものすごく怒ってただろ。何の話?」
 「いえ、今日の回答書のOさん分ができたけど、提出準備を私のと併せてやってくれって言われたんで、そっちで書いたんだからそれはそっちでやってって言いました」
 「同一案件の回答書なんだから別便に分けて返送するでもなし、預かってまとめて準備すればいいだろ?」
 「でも私、去年の似た調査の回答書を前任者に頼んだ時『そっちで書いたならそっちでやって』って言われたんで、同じようにしたんです」
 「…意趣返しってこと?」
 「そうですね」
 彼女は昨年まで別係にいた。その頃、当係にいた前任のT君にされた対応を今、全く無関係のO君にしてやった、というわけだ。ただ、そのT君は俺が知る限り誰から何を頼まれてもおおよそ断るということを知らない男だったはずだ。
 「お前、冷たい奴だな」
 考えなしの一言。
 普段、何を言われても直ちに切り返してくる彼女だが、一瞬の間があった。
 「去年のお前がどう思ったのか想像はできるが、今O君にそう対応する理由になるとは思えん。少し我慢して引き受けても良かった。それが大人の対応って奴なんじゃないのか?」
 「…大人になんてなりたくないです」
 言葉に迷った気配はあったが、結局彼女はそう言った。苦笑いしながら。
 法定成人年齢はとうの昔に過ぎた彼女のこの言葉は、モラトリアムの最中であり彼女の振る舞いも周囲は許容すべきとの態度を示したものなのか、あるいは俺の説諭を揶揄しただけのものなのか、俺には判断がつかなかった。
 
 俺は午後の窓口当番で、定時よりしばらく残業しなければならなかった。
 と言っても我々の係は普段から雑談で居残る事が多い。今日はZ君が持病の治療で急遽休んだため、俺以下の3人が思い思いのサブカルネタでダラダラと話し込んでいた。Hさんは今日の事を気にしていないかのように話に加わっており、気が付けばかなり遅い時刻となっていた。
 そこへO君がやってきた。幹事を務める今月予定の研修旅行で、幹事が一括して搬送すべき物品の希望を聞いて回っているのだ。現れた瞬間の表情は硬かったが、すぐ気を取り直して普段どおり明るく話しかけてきた。
 HさんもO君との一件などまるでなかったかのように会話している。相手によっては、もはや会話も叶わず、お互いに黙って書類を突き出し合う殺伐とした日々があり得たのに、結局彼女はO君の大人の対応に救われているのだ。
 
 Hさんが帰宅した後、俺はO君に今日の出来事のO君側の解釈を尋ねた。
 昨年まで自身がHさんとデスクを並べていたO君は「あれが彼女の『普通』なんで、そんなに驚きはしませんし気にしてないっすよ」と言ってくれた。
 俺とD君は彼に詫びた。
 詫びた分、彼女にはそれ相応の改善を見せてもらわなければ。